野球留学の名目でサンフランシスコ・ジャイアンツの1Aで1964(昭和39)年からプレーしていた南海の村上雅則。ところが、そこで活躍したことで8月にいきなりのメジャー昇格を果たす。そこでも好投を連発したため、ジャイアンツは、そのオフに1965(昭和40)年の契約も結んだ。ところが、保有権をめぐって日米の球団が対立。メジャー・リーグのフリックコミッショナーは2月17日に「問題解決まで日米交友関係を絶つ」と表明した。その後、日本側から1965年終了まで待つという譲歩案が提示されたことから、問題は収束した。