今夏、100回目を迎える夏の甲子園。100回大会を記念して、これまでの甲子園の歴史から100のトピックスを厳選して紹介したい。
第1回は甲子園のアイドルたち!
【1】元祖アイドル・太田幸司
長きにわたって、女性ファンを集め続ける甲子園。戦後の「元祖・甲子園アイドル」といえば、太田幸司(三沢高、青森)だろう。1968年夏、1969年の春夏と3季連続で甲子園に出場。松山商(愛媛)との延長18回引き分けの死闘など実力も持ち合わせており、ハーフで端正な顔立ちから女子高生を中心に絶大な人気を集めた。
後述の甲子園アイドルたちが「○○ちゃん」の愛称で呼ばれがちなのは、太田幸司が「コーちゃん」と呼ばれた影響も大きいだろう。
【2】伝説の14歳エース・稲若博
戦前の甲子園のくくりは「旧制中学校」。現在の中学1年生から高校2年生までの年代で、実力があれば15歳以下でも甲子園に出場することができた。伝説になっているのは、1929年春から6度、甲子園に出場した稲若博(八尾中、大阪)。初出場の際はなんと14歳。少年が投げ抜く様に女性ファンは心打たれ、大変な人気だったという。
【3】いきなりオールスターに選出!
1969年の太田幸司に続き、甲子園のアイドルになったのは島本講平(箕島高、和歌山)。1970年春に4番でエースとして全国制覇を達成し、人気は最高潮に。同年ドラフト1位で南海に入団。ルーキーイヤーは1軍で7試合しか出場していないものの、オールスターゲームに選出されるほどの熱狂ぶりだった。
【4】「鹿児島県」だけでファンレターが届いた!
現在はタレントとして活躍する定岡正二も伝説的な甲子園アイドルだった。鹿児島実高(鹿児島)のエースとして1974年夏に甲子園に登場すると、甘いルックスで大人気に。追っかけは1万人を超えたとも言われ、「鹿児島県 定岡正二様」だけでファンレターが届いたという。
【5】川崎球場を満員にした辰徳フィーバー
1974年夏の準々決勝で定岡正二と名勝負を繰り広げた原辰徳(東海大相模、神奈川)もフィーバーを巻き起こした1人だ。1年生にして「5番・三塁」の定位置を掴み、計4度甲子園に出場。神奈川大会では川崎球場を満員にし、当時同球場を本拠地とし、閑古鳥を鳴かせていた大洋ホエールズの関係者がたいそう羨んだという。
【6】1年生エース・バンビ坂本
1977年夏の甲子園に現れたのは東邦高(愛知)の1年生エース・坂本佳一。小柄ながらキビキビした投球で準優勝を果たし、大フィーバーに。長い首がトレードマークで「バンビ」の愛称は今でも知られているが、大会中はメディアから「黒ヅル君」と呼ばれていた。
【7】数多の「大輔」を生んだ「大ちゃんフィーバー」
甲子園史上に残る大フィーバーを巻き起こしたのは荒木大輔(早稲田実、東東京[当時])。1980年夏から5季連続で甲子園に出場。爽やかなルックスで社会的フィーバーを巻き起こし、「大輔」が新生児の名前ランキング1位になった。
1982年、ドラフト1位でヤクルトに入団するが、高校時代の人気はそのままに、女性ファンが神宮球場に殺到。当時、クラブハウスと球場を結ぶ地下道が完成したばかりだったが、「荒木のために掘った」という通説を生んだ。
【8】甲子園アイドルから一転ヒールに……
異色の甲子園アイドルだったのは元木大介。上宮高(大阪)の主砲として甲子園通算2位タイの6本塁打を放ち、「元木フィーバー」を巻き起こした。
従来の甲子園アイドルたちは喧騒に悩まされたが、彼は「クセ者・元木」。追っかけの女性ファンに笑顔で手を振るなど、本当にアイドルらしい立ち振る舞いで“アイドル生活”をエンジョイしていた。
ただ、1989年のドラフトでダイエーに1位指名されるも「巨人に行きたい」と入団拒否。アイドルから一転、ヒールとしてアンチ巨人に叩かれることになってしまった……。
【9】女性ファンが興奮しすぎて右肩負傷
ダルビッシュ有も東北高(宮城)のエースとしてアイドル的な人気を博した。2002年春の甲子園初登場のときにはすでに追っかけがおり、開会式後に握手を求めた女性ファンが興奮しすぎて腕を引っ張り、ダルビッシュは右肩を痛めてしまった。
【10】ハンカチフィーバー
定岡正二、荒木大輔に次ぐフィーバーだったといわれるのは斎藤佑樹(早稲田実、西東京)のハンカチフィーバー。2006年夏の甲子園、青いハンカチで汗を拭うマウンド上の姿がクローズアップされると、「ハンカチ王子」の愛称で大人気に。百貨店でハンカチが飛ぶように売れ、ハンカチメーカーの株価が値上がり。斎藤が使っていたハンカチを製造していたニシオ株式会社は急遽、青いハンカチを量産し、65万枚を売り上げたという。
文=落合初春(おちあい・もとはる)