故・高橋一三さんの教えと鳥取球児の誇りを胸に。松尾勇太(山梨学院大)が挑むラストシーズン
【この記事の読みどころ】
・高橋一三氏が情熱を注いだ山梨学院大はいまや関甲新学生リーグ優勝候補の一角
・元プロのシンプルかつ核心を突く指導で選手もチームも急成長した
・鳥取の高校球児はもっと上のレベルでやれるはず!
★「マウンドに上がったら、自信を持って腕を振るだけだ」
7月14日、巨人のV9に左のエースとして貢献した高橋一三氏が亡くなった(享年69歳)。その高橋氏が最後に情熱を注いだのが、関甲新学生リーグに所属する山梨学院大だ。
2009年から2013年のシーズンまで指揮を執り、監督を退任した後は顧問としてチームを温かい眼差しで見つめてきた。「一三さん」と呼び、慕ってきた部員たちも、告別式に全員で参加。エースの松尾勇太(4年・米子西高)は恩師の教えを胸に、大学ラストシーズンのマウンドに向かう。
高梨裕稔(日本ハム)の後を受け、昨年からエースを務める松尾。130キロ台後半から140キロ台前半のストレートと、相手打者のタイミングを上手く外すツーシームやフォークなど多彩な変化球を、丁寧にコーナーへ投げ込む好右腕だ。
昨年春には、最高殊勲選手に輝く活躍で、上武大や白鷗大を抑えての関甲新学生リーグ初優勝に大きく貢献。チームそして自身初となる全国大会への出場を掴み取った。
だが昨秋と今春は2季合わせてわずか4勝と苦しんだ。技術面はもちろんのこと「エースとしての責任感が強いゆえの気負いも感じてしまった」と振り返る。
だからこそ今、松尾は脳裏に焼き付いている「一三さん」の言葉を何度も思い出す。
「マウンドに上がったら、自信を持って腕を振るだけだ」
★シンプルで核心を突く「一三さん」のアドバイス
高校時代は2年夏に鳥取大会でベスト8に入るものの、3年夏は初戦敗退。「プロを経験した投手から指導を受けたい」と高橋一三監督(当時)と伊藤彰コーチ(当時/元ヤクルト)がいる山梨学院大に一般入試でやってきた。
だが、選手をすべて平等に扱う高橋監督に早くから見いだされ、下級生時から先発のマウンドを経験した。
思うような結果はなかなか出なかったが、そんな時に上記の言葉をかけられた。そこで気負うあまり、持てる力以上の力を出そうとしていた自分に気づいたという。
シンプルではあるが、核心を突く一言で救われた選手は多い。現在、チームの主将を務める中島翔大(4年・帝京三高)も「一三さんの教えは“球をよーく見て、それを強く打て”など、すごくシンプルな言葉なんですが、それで良くなることが何回もありました」と話す。
今回の訃報に際し、松尾は「(一三さんの監督最終年は)僕らから見ていても“今日は体調悪そうだな”という日もあったのですが、真夏日でも休まず、グラウンドに立って僕らを見続けてくれていました」とあらためて感謝の言葉を並べた。そして「恩返しのためにも結果を残したい。全国にまた行きたいです」と続けた。
さらに松尾は地元・鳥取の高校球児たちにもこんな想いを抱いている。
「鳥取の高校生は、大学でやれる実力を持っていても高校で野球を辞めてしまう子が多いですね。今はこうして地方の大学でもいいところはたくさんありますし、どんどん視野を広げてチャンスを探してほしいです」
そのためには、生粋の鳥取人である松尾の活躍も後輩たちの刺激になるはずだ。
亡き恩師や地元球児たちへの強い想いを胸に、松尾は大学最後のシーズンに全力を尽くす。
▲昨春の優勝決定時に祝福と激励の言葉をかける高橋一三氏。伊藤彰現監督は「私にも学生にも気さくに接していただきました。選手をよく見て、メンタルのケアなどもすごく丁寧にされる方でした」と振り返る。
■プロフィール
松尾勇太(まつお・ゆうた)/180センチ77キロ、右投右打/鳥取県米子市出身。小学校1年時に五千石ベアーズで野球を始め、尚徳中、米子西高を経て山梨学院大に一般入試で入学。3年春に最高殊勲選手を獲得する活躍でチームを創部史上初の全国大会に導く。卒業後は九州の社会人チームで都市対抗出場とプロ入りを目指す。
■ライタープロフィール
高木遊(たかぎ・ゆう)/1988年、東京都出身。幼い頃よりスポーツ観戦に勤しみ、東洋大学社会学部卒業後、スポーツライターとして活動を開始。大学野球を中心にアマチュア野球、ラグビー、ボクシングなどを取材している。高木遊の『熱闘通信(http://www.plus-blog.sportsnavi.com/buaka/)』随時更新中。twitterアカウントは@ you_the_ballad (https://twitter.com/you_the_ballad)