◆この連載は、高校時代を“女子球児”として過ごした筆者の視点から、当時の野球部生活を振り返るコーナーです。
とうとう迎えた最後の夏。神宮球場で行われた東西合同の東京大会の開会式は雨だった。チームメイトが行進する姿をスタンドから眺めつつ、数日後に自分がこのグラウンドに立つことを思い浮かべる。
本当にここでノックを打つのだろうか。今までプロ野球の試合を観に来ていたこの球場で、皆と一緒に戦えるのだろうか――。
私が助監督としてベンチ入りすることは、いくつかのメディアによって世間に知らされていた。開会式からの帰り、ある男性客に声を掛けられる。報道で高校名を耳にしていたようで、「あなたのことか」と尋ねられた。
大会に出場するすべての学校が紹介された選手名簿にも、私の名前が載っていた。各校の男性教師が並ぶ“助監督”の欄にひとつだけ記された女子生徒の名。大会へ向けた抱負が書かれたコーナーには“3年生一同”からとして、私へのエールが載せられている。
皆に背中を押され、私は最初で最後の晴れ舞台へと足を進ませた。
当日はよく晴れた。夏休みを間近に控えた月曜日、プレイボールは昼過ぎの予定。通常は入ることのできない通路をたどり、選手の控え室へ向かう。
女子ということで、私は皆とは別のロッカーを使わせてもらうことになった。練習に備えてユニフォームに着替える段階になって気づく。
「靴下がない……」
荷物を詰める時にもっと確認作業をすれば良かったのに、ただバッグに突っ込んで出てきてしまったのがいけなかった。靴下がどこにも見当たらない。
困りはてて顧問に伝えると、表情が固まるのがわかった。もともとうっかり者ではあるが、まさか当日になってこんな忘れ物をするなんて――。
そこへ、救世主が現れた。ともにセカンドで練習をしている後輩部員が、自分のスペアを貸してくれたのだ。彼は2年生ながらレギュラーで、周囲から頼りにされる存在だった。替えの靴下を持っていたことも偶然だとは思わない。しっかり“備え”のできる選手だった。
またもや仲間に救われるかたちで、私は無事グラウンドへ下り立つことができた。
野球部の試合があるということはさほど校内に知れ渡っておらず、控えの部員たち以外に観客はほとんどいなかった。それでも交流のある教師が何人か駆けつけてくれ、特にいつも隣のコートで活動していたテニス部の顧問が観に来てくれたのは嬉しかった。
ベンチの真上には取材に訪れた2つのテレビ局が陣取っており、私が顔を出すたびにカメラが向けられる。何だか恥ずかしくてベンチの奥に引っ込んでしまったが、もっと協力的にしておけばよかったと、今になって思う。
アップとキャッチボールが終わり、ついに“7分ノック”が始まった。顧問が外野へ、そして私はバッターボックスに向かう。真っ直ぐに見据えたバックスクリーンの残像が、まだうっすらと頭の内側に残っている。
記念すべき第1球は空振りだった。それを見た顧問や選手たちは心配したというが、私は不思議と平気だった。
「あ、やってしまった」
そんな感じで、すぐに次のボールを受け取る。そこからは順調にこなすことができた。サードからショート、セカンドからファースト。黙々とノックを打つ。
打っている最中のことはよく覚えていない。グラブを構えるチームメイトの元へ、ひとつひとつ白球を転がす。試合で上手く打球を処理できるように、リズムよくプレーできるように。
試合は快勝だった。失策もなく、理想的な試合運びでコールド勝利をもぎ取る。これでもう少し、夏を続けることができる。
私にとってはこの日が最後のユニフォーム姿だった。次の試合からはスタンドに戻って声援を送ることになっている。一足早く“引退”だ。
それでも、バッターボックスでの7分間はまるで夢のようだった。憧れのグラウンドで、綺麗な土を踏みながらボールを打つ。最高の思い出になった。
最後の夏に素晴らしいプレゼントをくれた仲間にありがとうを伝えつつ、“野球”と出合えたことにも深く感謝したいと思う。