1968年の広島で輝いた二人の20勝エース
雑誌『野球太郎』の連載でも御馴染み「伝説のプロ野球選手に会いに行く」の「週刊版」。現在、文庫版“伝プロ”も絶賛発売中!
16年ぶりにAクラスに浮上して、CS初進出を決めた広島。連続Bクラスが15年でストップしたわけですが、15年連続というのは、セ・リーグでワースト2位の記録だそうです。ではワースト1位は? といと、これがやはり広島で、1950年から67年の18年連続――。
広島は49年11月に創立し、翌50年、発足したばかりのセ・リーグに加盟した球団です。つまりは球団創立以来Bクラスに低迷していたところが、初のAクラスとなる3位に浮上したのが68年。
「市民球団」として設立され、経営母体を持たない広島でしたが、同年から東洋工業(現マツダ)が親会社となり、今に続く広島東洋カープとなったのがこの年。それ以前は地元財界の協力で球団運営がなされていたのに対し、一社の経営となって、フロント組織が一本化されたことがチーム強化につながったようです。
さて、68年当時の広島で活躍したメンバー。『伝説のプロ野球選手に会いに行く』では、3人の方に取材する機会に恵まれました。
前年オフに阪神から移籍して3番、4番を務め、打率.313、21本塁打、69打点を記録した山内一弘さん。投手陣で同年23勝を挙げた安仁屋宗八さん、さらには21勝を挙げた外木場義郎さん。これらの結果だけを見ても、打線の中軸が補強されて、20勝投手が2人も出たから浮上できたのだろう、と想像できると思います。
もっとも、ベテランの山内さんはともかく、安仁屋さんは前年までシーズン9勝が最高の5年目投手。外木場さんにいたっては、65年にノーヒットノーランの快挙を成し遂げたものの、通算わずか4勝の投手でした。決して、計算できる戦力で臨んだわけではなかったのです。
チームを率いたのは、ヘッドコーチから昇格した根本陸夫監督。のちに西武、ダイエー(現ソフトバンク)でも監督を務め、両球団でフロント入りして、さまざまな面からチーム強化に邁進した野球人。その辣腕ぶりから[球界の寝業師]とも呼ばれた人ですが、外木場さんが根本監督との対話を振り返ってくれました。
▲外木場義郎さん。実働15年で通算131勝という実績と同等に、完全試合を含むノーヒットノーラン3回の快挙達成が光る。
「監督就任が発表された後、根本さんが『ちょっと会社に来てくれんか』と。普通、活躍してない選手が呼ばれたらね、いよいよトレードかな、ヤバいな、と思いますよ。それで行ってみたら、ざっくばらんで、『まあ、お茶でも飲むか』と言われて、なんかおかしい。そしたら、『俺は来年、監督やるけれども、おまえは1軍のピッチャーとして扱うから、そのつもりでしっかり頑張ってくれ』という話でした」
わざわざ会社に呼ばれ、伝えられたのはそれだけ。外木場さんは疑問に感じるほどだったそうですが、面と向かって言われたことで「どうしても活躍してもらわないといかん」という気持ちが伝わってきて、すごく印象に残ったそうです。
もっとも、根本監督は気持ちだけではなく、コーチ時代、外木場さんの投球フォームに関して具体的なアドバイスをしていたとのこと。指導者として、能力に見込みありと把握した上での言葉だったのでしょう。また外木場さん自身、アドバイスがきっかけとなって、あらためて練習に打ち込んでいけたそうです。
練習といえば、当時の広島の練習量は12球団ナンバーワン。そのなかで投手陣は、藤村隆男ピッチングコーチから極めて厳しい指導を受けていました。
「一人、練習中に泡吹いて痙攣起こした選手がおりました。ヤバい、彼はもうだめかな、と思いましたよ。それで少し練習量を減らしたこともあったんです。だからね、もし倒れる者が出なかったら、と思うとゾッとしますよ。なにしろ、キャンプでキャッチボール終わったら、野手の練習が終わるまでピッチャーは休みなし。2時間半ぐらい、とにかく走ることを重点に動き続けるわけです」
藤村コーチの厳しさについては、安仁屋さんもこう言っていました。
「僕は体力あったぶん、藤村さんにはものすごい鍛えられました。20歳以上も年が上のコーチだというのに、クソオヤジ! 死にゃあいいのに、と思うほどでした。もちろん、1軍で結果が出たときには逆に感謝したし、藤村さんの練習の厳しさに耐えられたからその後の野球人生もある。いちばん感謝してます。でも、厳しかった…」
なおかつ、安仁屋さんによれば、厳しかったのは藤村コーチだけではなく、根本監督も同様。
「あのとき、僕と外木場はね、根本さんに500球、投げさせられたんですよ。一日に500球。キャンプだけじゃなく、オープン戦の間も。それだけ二人一緒に鍛えられたら、どうしても、相手のことは意識しますよね」
<安仁屋 23勝11敗 防御率2.07 外木場 21勝14敗 防御率1.94>。
野球の記録の本などで数字が並んでいるのを見ていると、それだけで「ライバル」ということが強く感じられます。
「外木場は僕が入団した翌年に入ってきて、初勝利がいきなりノーヒットノーランでしたから、実際、僕はすごいライバル意識を持ちました。たぶん、外木場もね、口には出さないけど、僕のことを意識しとったと思うし。僕も当時はね、『こいつがライバルじゃあ』言うてませんけど、自分が意識しとるいうことは、相手も意識しとるんじゃないかなあ、いう気はしてました」
外木場さんは、この1968年9月に完全試合を達成し、72年にもノーヒットノーラン。取材時にはその大記録を中心にうかがったため、残念ながら、ライバル関係について聞くことはできませんでした。そのかわり、安仁屋さんが振り返ってくれました。
▲安仁屋宗八さん。沖縄出身初のプロ野球選手として広島に入団。阪神に移籍した75年に最優秀防御率のタイトルを獲得。実働18年で通算119勝を挙げている。
「向こうが勝ったら、離されんように。逆に向こうが負けたら、追い越してやろうと一生懸命になったし。僕、そこまで張り合うのが本当のライバルや、思いますよ。そうやって、勝ち星を競い合うことが、最終的にはチームのためになるんですから。それであの年、二人で44勝してAクラスに入りました」
68年の広島は68勝62敗4分け。2位の阪神に4ゲーム差、1位の巨人には9ゲーム差と離されはしましたが、この両球団以外には勝ち越し。7月上旬まで首位に立つほど、快進撃を見せてのA クラス入りでした。
チーム成績を見ると、打率をはじめとする攻撃面の数字は軒並みリーグワーストだったのに対し、チーム防御率は阪神に次いで2位。どちらかといえば、両エースを軸として“投高打低”で浮上したといえそうですが、入団4年目の衣笠祥雄が台頭して5番に定着するなど、若い野手も成長。頂点を目指しての基盤が作られ始めた年でもありました。
当時の松田恒次オーナーは、根本監督就任に当たって、「企業としてのプロ球団を作ってほしい」と頼んだそうです。最後に、それに対する根本監督の言葉を掲げたいと思います。今から46年前の言葉です。
「強いチームを作るだけなら、金をかけて外人でも連れてくるなど、どしどし補強すればいい。しかし、企業としてのプロ野球を成功させるためには、そんな小手先の芸ではやれない」
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『伝説のプロ野球選手に会いに行く』を開設しました。プロ野球の歴史に興味のある方、復刻ユニフォームを見ていろいろ感じている方、ぜひ見ていただきたいです。
文=高橋安幸(たかはし・やすゆき)/1965(昭和40)年生まれ、新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。雑誌編集者を経て、野球をメインに仕事するフリーライター。98年より昭和時代の名選手取材を続け、50名近い偉人たちに面会し、記事を執筆してきた。昨年11月には増補改訂版『伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)を刊行。『野球太郎 No.006』に掲載の<伝説のプロ野球選手に会いに行く>では、元祖[二刀流ルーキー]永淵洋三さんにインタビューしている。
ツイッターで取材後記などを発信中。アカウント
@yasuyuki_taka