プロ野球版「ゴジラvs◯◯」もっとも白熱した戦いはこれだ!「国民栄誉賞受賞記念!松井秀喜のライバル」選手名鑑
「Weekly野球なんでも名鑑」は、これまで活躍してきた全てのプロ野球選手、アマチュア野球選手たちを、さまざまな切り口のテーマで分類し、テーマごとの名鑑をつくる企画です。
毎週、各種記録やプレースタイル、記憶に残る活躍や、驚くべく逸話……などなど、さまざまな“くくり”で選手をピックアップしていきます。第20回のテーマは「国民栄誉賞受賞記念! 松井秀喜のライバル」選手名鑑です。
★ ★ ★
5月5日、長嶋茂雄氏と松井秀喜氏に国民栄誉賞が授与されました。4月の発表時は少し驚きを持って受け取られた部分もありましたが、同日行われた引退セレモニーで東京ドームに帰ってきた松井氏の存在感はやはり別格。当初の違和感も吹き飛んだような気がします。
今回は日本で10年、アメリカで10年。ファンを魅了してきた松井と縁のある選手たちを“ライバル”としてピックアップし名鑑をつくります。
イチロー
ともに高卒でプロ入りし早々にレギュラー奪取。日本球界の頂点を極めた後、アメリカに渡るというキャリアステップは酷似しているイチローと松井。
一方でプレースタイルや性格は正反対といってもいいほど違う。1歳違いの2人の天才を比べたがるメディアは多かったが、互いに相手を意識することは少なく、打者と打者、セ・リーグとパ・リーグ、長距離砲とアベレージヒッター。直接対決もタイトル争いも起きない関係を盛り上げきれず、そうした比較はあまり見なくなっていった。
2人が同じ試合で真剣勝負した機会は少ない。NPB時代だと1996年のオリックスが制した日本シリーズだけだ。4年目の松井はこの年38本塁打を放ち“メークドラマ”の立役者の1人となっていた。しかし日本シリーズでは、19打数4安打(打率.211)。一方のイチローも19打数5安打(打率.263)と微妙な成績だったが、初戦で延長10 回に勝ち越し本塁打を放ったため、このシリーズの優秀選手賞に選ばれている。
ちなみに同じ96年のオールスターでは、当時パ・リーグを指揮していた仰木彬監督が松井の打席でイチローをマウンドに送った。しかし、セ・リーグを指揮していた野村克也監督は憤慨。もし抑えられた場合の松井のプライドなども考え、投手の高津臣吾を代打に送る、という一種の事件も発生している。
そして、イチローは2001年、松井より1年短い9年でNPBを離れメジャーへ。松井も2年後にFA移籍で海を渡る。オリックスと巨人という関係にも似た、マリナーズ(アメリカンリーグ・西地区)とヤンキース(アメリカンリーグ東地区)というチームで、2人は20代後半からの選手としての円熟期を過ごした。
イチローがタイトルやメジャー記録の更新で話題を集めれば、松井はチームへの貢献で注目を浴びた。同じ土俵に立つことのない関係はメジャーでも続いた。
極めつけは06年、09年のWBCだろう。実際の事情は闇に包まれたままだが、日本代表に名を連ね、リーダーシップを発揮するイチローに対し、松井はシーズンを優先し、WBCのユニフォームに袖を通すことはなかった。考え方は違い、2人はすれ違ったままだった。
2009年シーズンを最後にヤンキースから移籍した松井、2012年シーズン途中に電撃的にヤンキースに加入したイチロー。2003年オールスターのプラクティスユニフォームの時くらいしか、同じユニフォームを着用する機会はなかったが、時期は違うものの、初めて同じチームに所属することになった。噂が飛び交っている「一日契約」によるニューヨークでの引退セレモニーが行われれば、03年以来、同じユニフォーム姿の2人を見ることができるのだろう。
不思議な距離感を保った不思議なライバル関係は、近い将来訪れうる指導者同士の関係になっても続くのだろうか?
[イチロー解説] 1歳違いでともに高卒でプロ入り。アメリカに渡ったタイミングも2年ずれただけ。完全に同じ時代をプレーした者同士。
同時代性は5。だが驚くほど接点が少なく、互いにギラギラしたライバル心を見せることはなかった。しかし、存在を意識した発言は随所で見られ微妙な空気は存在した。
ライバル心は4。グラウンド上での勝負はほとんどなかったが、ほとんどすべてにおいて対照的な指向は対比されることも多かった。
名勝負演出は4。
松井とどれだけ同じ時代にプレーしたかの「
同時代性」、相手を意識する気持ち「
ライバル心」、松井に対し勝負の場面を作ったかどうかの「
名勝負演出」をそれぞれ5段階評価したもの(以下同)。
野村克也監督 松井が日本でプレーした1993年から2002年は、野村監督のヤクルト〜阪神時代とほぼ重なる。この10年の間、巨人とヤクルトは互いに4度ずつリーグ優勝しており、両チームはセ・リーグ最大のライバル関係にあった。1998年までヤクルトを指揮した野村監督が、松井個人をライバルと見なしていたかは不明だが、ライバルチームの主軸打者を徹底的に抑えにいったことは間違いないだろう。
松井が高津臣吾から打ったプロ入り第1号本塁打も「インコースが打てるか試せ」と野村監督が指示し、研究目的で投じたボールを打ったものだったことはよく知られている。実際、愛弟子の古田敦也のリード、エースとして一本立ちさせた石井一久らのピッチングは松井をよく抑えていた。松井本人は配球の読み合いはあまり意味がないというスタンスだというが、古田のリードだけは「意識してしまっていた」と後に話している。
戦力に劣る阪神を率いた時代はもう少し露骨に松井に対抗した。ベテラン左腕・遠山奨志にシュートとスライダーのコンビネーションで攻めさせ、高い確率で松井を封じることに成功している。
必死になって抑えにいったのは、その能力を誰よりも評価していたからに違いない。高津のインコースを打ち抜いた18歳の松井を当初から「本物だ」と認めたことに始まり、昨年のWBCでは、もし監督をやるなら「4番は松井」などとコメントもしている。
[野村克也監督 チャート解説] 松井のキャリア前半半分をともに戦った。
同時代性は4。宿敵巨人の4番を抑えるために策を巡らした。
ライバル心は5。ID野球や“松井キラー”で必死に抑えに行く様はファンも熱狂した。
名勝負演出は4。
ロベルト・ペタジーニ タイトル争いで松井と継続的に張り合った選手と言えば、ロベルト・ペタジーニだ。1999年に来日しヤクルト入りするとホームランを量産。1年目から44本塁打を記録し本塁打王に輝いた。対する松井は42本。
優勝の望みがなくなっていた巨人はシーズン終盤、快投を続けていたルーキー・上原浩治にペタジーニを敬遠させてでも松井に本塁打王を獲らせようとする。しかし、そうした策も実らず、ペタジーニは松井のタイトル獲得を阻んだ。
2000年は松井がリベンジする。36本のペタジーニを抑え42本の松井がホームランキングに。そして2001年は39本でペタジーニ。松井は36本。2人のつばぜり合いが続いた。
そして2002年、ペタジーニは41本塁打を放つ。来日年以来の40本超えに成功するが、松井はその上をいった。後半戦64試合で32本塁打という驚異的なペースで本塁打を打ちまくり松井は大台の50本に到達。ペタジーニのタイトル獲得はならなかった
このオフ、松井がメジャー挑戦を決めると、巨人はペタジーニと契約を結んだ。松井の穴を埋められるのは、4年間松井のライバルを務めた大砲しかいなかったのだ。
[ロベルト・ペタジーニ チャート解説] 松井の日本でのキャリアの半分ほどをともにプレー。
同時代性は3。NPB時代の松井最大のライバルであることは間違いないが、敬遠を嫌がり涙した上原を気遣うコメントも。
ライバル心は4。ヤクルト時代4年間続いた本塁打王争いは見事。
名勝負演出は5。
その他の「松井のライバル」たち
馬淵史郎(明徳義塾高校監督)
1992年の夏の甲子園で5打席連続敬遠を指示。社会問題に発展する。
駒田徳広(巨人)
松井が巨人入団の翌年に横浜へ移籍。落合博満の入団が直接的な原因だが、後半戦の松井の主軸抜擢で弾き出された面も。ほかに吉村禎章も大きく出場機会を減らした。
高津臣吾(ヤクルト)
1993年5月2日、松井にプロ第1号本塁打を打たれた。また96年のオールスターでは、松井の代打で出場し投手・イチローと対戦。2004年のMLBデビュー戦では最初の打者が松井。さらには松井と同じ年に引退と縁が深い関係だった。
落合博満(巨人)
1994年から1996年にわたり松井と巨人のクリーンナップを務める。4番打者としてどうあるべきか、を大いに落合から松井は学んだ。1994年の中日との優勝決定戦「10・8」でのアベックアーチも。
山?武司(中日)
1996年に39本塁打でタイトル獲得。初タイトルを狙った松井を1本差で抑えた。
遠山奨志(阪神)
阪神・野村克也監督のアドバイスでシュートを修得し“松井キラー”に。1999年は13打席対戦し無安打に抑えた。前打者石井浩郎を敬遠し松井勝負という場面もあった。しかし徐々に対応され、2000年以降は本塁打も打たれるようになる。松井がメジャー行きを表明した02年をもって現役引退。
ダレル・メイ(阪神)
1999年、松井に死球を当てる。珍しく怒った松井がバットを投げ、マウンドに歩み寄った。後に巨人とヤンキースでチームメイトとしてプレーする縁も。
黒田博樹(広島)
2000年9月6日の試合で松井にサヨナラアーチを浴びる。松井自身「思い出に残るホームラン」として挙げている一発。黒田の初奪三振は松井から。1997年から2002年までの6シーズンで67打数21安打(打率.313)6本塁打とよく打たれた。松井とは同じ年に生まれている。
福留孝介(中日)
2002年に打率.343で首位打者に。本塁打と打点でタイトルを獲った松井の三冠王を阻んだ。
ティム・ウェイクフィールド(レッドソックス)
ナックルボールで松井を手玉に取り、通算62打数13安打(打率.210)に抑え込んだ。松井がメジャーで最も多く対戦した投手で計69打席の対戦がある。
ペドロ・マルティネス(フィリーズ)
2009年のワールド・シリーズで松井に2本塁打を浴び、この年を持って引退した。
★ ★ ★
松井と縁のあった選手の中には、松井よりかなり年上である選手がいます。高津は6歳年上、遠山は7歳年上、落合は21歳年上(!)。今回はピックアップしていませんが、かなりの回数対戦していた山本昌も11歳年上です。
松井は高卒2年目からレギュラーとしてプレーしていたので、当然と言えば当然なのですが、若いときからで打席に立つ機会を与えられ、脂の乗り切った投手や修羅場をくぐり抜けてきたベテラン選手にもまれることで、技術を磨き上げたのでしょう。
「メジャーに選手が流出する前の日本球界」という豊かな土壌が松井を育てあげ、野茂やイチローが半開きにしたメジャーへの扉を完全に開けさせたというのは、日本のプロ野球が変わる象徴的な出来事だったようにも映ります。
そして松井と縁をもった人々は、その後多くが何かを成し遂げているというのも興味深いところです。監督就任2年目で「敬遠」を指示した明徳義塾の馬淵監督は高校野球史に名を残しそうな名将となり、初本塁打を打たれた高津は、セーブ記録を打ち立てメジャーでもプレー。初の本塁打王を阻んだ山?は40歳を越えて本塁打王を獲得するなど息の長い選手になり、三冠王を阻止した福留もWBCやメジャーで活躍する選手へと成長しました。同じセ・リーグを盛り上げた石井一久(当時ヤクルト)や藪恵壹(当時阪神)や斎藤隆(当時横浜)らもメジャーに挑み、同級生の黒田はヤンキースでエース級の働きを見せています。
「松井と同じ時代に、同じ舞台に立った」ことが、それだけでいかにすごいか、ということなのかもしれません。松井さん、本当にお疲れさまでした。