今夏、100回目を迎える夏の甲子園。100回大会を記念して、これまでの甲子園の歴史から100のトピックスを厳選して紹介したい。
第3回は甲子園の歴史&トリビアを紹介!
【31】第1回の豊中グラウンドには女性専用シートがあった
「甲子園」が「甲子園」になる前、第1回大会の会場は大阪・豊中グラウンドだったことはよく知られている(第1、2回は豊中グラウンド、第3回から9回は鳴尾球場、第10回から甲子園球場で開催)。
今はなき豊中グラウンドだが、実はバックネット裏に女性専用席が設置されていたと伝えられている。時代が時代だけに、貞操的な観点からくる配慮があったのかもしれないが、豊中グラウンドを所有していた箕面有馬電気軌道(現在の阪急)は当時、宝塚を中心に女性・ファミリー層をターゲットにしたレジャー開発を進めており、その影響もあったのではないかといわれている。
【32】敗者復活からの優勝
第2、3回大会では敗者復活制度があった。出場校は12校。1回戦で敗れた6校が抽選で4校に絞られ、勝ち上がったチームが準々決勝で復活するシステムだった。
この恩恵に預かったのは第3回大会の愛知一中(現旭丘)。1回戦では雨天中止と判断し、大阪市内に観光に出かけたが、試合開催の報が入り、大慌てで鳴尾球場に向かったものの敗北という大チョンボを犯していた。しかし、敗者復活戦を勝ち抜くとそのまま全国制覇。
その決勝戦では1点ビハインドの6回裏、愛知一中の攻撃中に猛烈な夕立がおこった。あと1アウトで試合成立のところだったが審判が試合を中止し、降雨コールドで再試合に。命拾いをした末に再試合を制したものだった。とんだ運の持ち主(?)が出現したせいか、この大会を最後に敗者復活戦は打ち切りになった。
【33】記念大会が大不評!?
今年は第100回記念大会で出場枠が増加するが、かつての記念大会も同じ。1958年の第40回記念大会では、初の全都道府県47代表に出場枠が増えた。1963年の第45回記念大会でも48代表(北海道が南北)で開催されたが、この2大会は実は不評だった。日程が延びないように3回戦まで阪急西宮球場との平行開催したところ、地方大会を勝ち抜いたのに甲子園で試合ができなかった高校が続出してしまったのだ。
【34】消えた大優勝旗
第100回を記念して「深紅の大優勝旗」が新調される。これが3代目の大優勝旗になるが、実は初代の大優勝旗にはミステリアスな「紛失騒動」があった。
ときは1954年11月末、舞台は第36回大会で優勝した中京商(現中京大中京)。なんと校長室に飾られていた大優勝旗が姿を消してしまったのだ。栄光の歴史が紡がれた優勝旗が消えたとあって、学校どころか町中が大騒ぎ。山狩りや警察による大捜査が行われ、最終的には2月に近所の中学校の床下から偶然発見された。犯人がいまだにわからない未解決事件である。
【35】たった1度の棄権
長い甲子園の歴史では出場辞退などの事件もままあるが、「棄権」といえるのはたったの1度だ。1922年、北陸大会を勝ち抜いた新潟商だったが、全国大会の出発直前にエースで4番の加藤昌助が病気でダウン。代わりの選手もおらず、「試合にならない」と棄権を申し出た。
翌夏、新潟商は晴れて全国大会出場を果たすが、監督は前年に倒れた加藤昌助。戦後も監督としてチームを甲子園に導いている。
【36】「カキーン」は減少中
1980年代以前の高校野球と今の高校野球、明らかな違いはバットの音だ。昔の映像を見ていると、「カキーン!」と甲高い打音が響くが、現在は余程いい当たりではないと、ほとんど聞くことができない。これは1991年から消音バットが導入された影響。以前のバットだと捕手や審判が難聴になりやすい問題があった。
【37】商標登録された甲子園の顔
甲子園の顔といえば、「凸」のスコアボード。そのシルエットだけで「甲子園」だという趣きがあるが、2011年に阪神電鉄により立体商標として登録されている。コカ・コーラの瓶やヤクルトの容器と同様、見れば一発でわかる名物である。
【38】8月18日は「高校野球記念日」
8月18日は「高校野球記念日」とされている。これは1915年8月18日に第1回大会の開会式が豊中グラウンドで行われたことから定められた。出場10校、5日間とはいえ、意外にも遅い日程だった。
【39】次の“甲子”イヤーは?
固有名詞、地名として定着している「甲子園」だが、ネーミングの由来は、建設された1924年が十干十二支の最初の甲子(きのえね)にあたる年だったことから。その周期は60年。次回の「甲子」は2044年である。
【40】金魚の袋から生まれた大ヒット商品
夏の甲子園の名物といえば「かちわり氷」。ビニール袋にかき氷を入れたものだが、1957年の発売当初はたこ焼きのフネにかき氷を入れており、溶けると服が汚れる問題があった。そこで閃いたのが、販売元の梶本商店の初代社長。お祭りの金魚すくいにヒントを得て、かき氷をビニール袋に入れてストローをつけた。これが氷嚢として涼むこともできると反響を呼び、甲子園の名物に。全盛期には1日1万5000袋が売れたという。
文=落合初春(おちあい・もとはる)