「野球は本当に辛いです。自分だけではないですし、自分がいっぱいいっぱいなのに周りに期待されて、プレッシャーをかけられて。“頑張れ”って言われても“頑張ってんねん”って思うときもありました」
秋季リーグ前のインタビューで、原はそうこぼした。
だが、原にとって野球はそう簡単に捨てられるものではなかった。幼い頃から、様々なものを犠牲にして時間を費やし、力を注いできた。また何よりも、野球が好きだった。
「でも、野球は好きですよ。全体練習が終わっているのに、内野手と一緒にノックを受けたり、みんながあがっているのに打撃練習をしたりしていますから」と笑う原の表情は、おそらく野球を始めた頃から変わっていない。
今は背負うもの多くなったが、根底にあるのは、その気持ち。そして高橋昭雄監督が以前言っていた「幸せになるため、幸せをつかむための野球」という言葉の意味をエースとして、主将として重く感じていたからこそ、自らの体を犠牲にしても「後輩たちに神宮球場(1部リーグ)でプレーさせたい」という一心だった。
1972年春の監督就任以降、東洋大を率い続けている高橋監督は、2部で自身最長となる6季を戦うなかで、しきりに「原樹理の復活なくして、東洋の復活なし」と周囲に言い続けてきた。それだけに厳しい言葉もかけてきた。そして原は何度も「野球を辞めたい」と思った。
東洋大姫路では、3年夏に兵庫大会決勝での延長再試合完投(再試合では完封)を経て甲子園に出場すると、そこでも好投を見せ、甲子園8強入り。その甘いルックスもあり、一躍甲子園の人気者となった。当然プロからの誘いもあったが、まだプロで活躍できる自信はなく、東洋大進学を決断した。
前年に日本一を達成していたチームのなかでも、原の類稀なる才能は入学直後から際立っており、春季リーグ開幕戦で2番手として登板。15回裏にサヨナラ安打を許したものの、7回3分の1を投げ奪三振8、自責点1と好投デビューを果たした。その後も初勝利を挙げるなど、大学野球生活のスタートは順調そのものだった。
だが、思わぬ落とし穴が待っていた。夏の練習中に秋季リーグ開幕戦の先発を高橋監督から告げられた。当然、その期待に気が奮い立ったが、裏目に出てしまった。
「開幕投手ということに意識がいきすぎました。自分で“もっとよくならないと”って、気持ちばかりが先走ってしまい、悪い方、悪い方へ進んでしまいました」と原が振り返るように、日に日に状態は悪くなった。
しまいには「130キロちょっとしか球速が出なくなり、送球の仕方もよくわからなくなってしまいました」というほどの絶不調に陥ってしまった。
当然、開幕投手の話はなくなりリーグ戦わずか5試合5回3分の2の登板のみに終わり、チームは最下位に転落。入替戦にいたっては最後まで原の出番はなく、チームの29季ぶりの降格をただ見つめるしかなかった。このときの落胆は激しく、ロッカールームからバスに向かう道で、東洋大姫路の恩師・堀口雅司前監督に呼び止められると号泣。
「もう野球を辞めたい」
と漏らした。これまで必死に続けてきた野球が、自らをこんなにも苦しめることは初めてだった。
周囲、そして高橋監督の「ここまでいろいろなものを犠牲にして野球に捧げてきたのに、ここで辞めたら何が残るんだ」という慰留もあり、退部を思い留まった原だが、次なる試練はすぐに訪れた。
年の瀬が迫ったある日の朝、目覚めると、右ヒジがロックされたような感覚で思うように動かない。初めての感覚だった。
その状況は年が明けても、春を迎えても変わらず、毎朝、その日その日によっていい日、悪い日がハッキリと分かれた。それでも投球はできたが、成績は安定せず、春秋通じてわずか2勝。秋に再び巡ってきた1部校との入替戦でも、原に登板機会はなかった。
そしてオフに右ヒジのクリーニング手術を決断。手術は無事成功し、思いのほか順調に全体練習へ戻っていった。
3年春は、高橋監督が設けた投球制限内での投球だったが、投げられる幸せを心から実感できた。しかし秋は、その喜びからか夏に飛ばしすぎてしまい、スタートダッシュにつまずいた。ひとつ進んでは、また戻る。そんな繰り返しを幾度も重ねる日々をすごしていた。
10月上旬、開幕から4カード目となる立正大戦の2回戦で原は先発を言い渡された。1回戦も敗れており、この試合の結果次第では1部校との入替戦どころか、3部校との入替戦も見えてきてしまう。
「これ以上惨めな思いはしたくない」とこの試合で負けたら野球を辞める覚悟だった。
だが、切羽詰まった原に天が味方する。台風18号が接近し、試合は翌週土曜日に順延となった。この間で、疲労回復と調子を立て直すことに腐心した。そして、そのタイミングで高橋監督から「もっと体の近くで投げなさい」とのアドバイスがあり、グラブを持つ左手の使い方を変えた。
以前は、左手を掻くようにして右腕を前に押し出していたが、左手でホームベース側に壁を作るように変えた。すると、思い描いていた球がどんどんと決まるようになった。
「この感覚を忘れたくない」。そう思った原は、2回戦の試合中に「監督、明日も投げさせてください」と伝えた。
結果は2日連続の完封勝利。3回戦にいたっては、1安打完封だった。そして、投球感覚だけでなく、野球を純粋に楽しんでいた頃の感覚も思い出した。「昔はこうやって1試合1試合を必死に野球していたよなっていう清々しい気持ちでした」
こうして4年での快投劇に繋がるきっかけをつかんだのだった。
最終学年、そして主将として迎えた今春はチーム全11試合中10試合に登板。8勝1敗7完投4完封という驚異的な記録を残した。78回3分の2で985球を投げ、自責点わずか6と、投げまくり、勝ちまくった。
その1敗が響き、またも1部昇格を逃すことになったが、その姿はわずか6勝に終わった3年分の無念を、一気に晴らしているかのようだった。
一方で、「投げすぎでは?」との声が外部から出たのも事実だ。
秋季リーグ開幕前に、そんな声があることを原に話すと、「僕は連投しても大丈夫ですし、監督さんも気を遣ってくださっています」と否定した上で、「先があるから無理するなって言いますけど、その先のために今を諦めてずっと後悔を引きずるぐらいなら、僕は“今”を取ります」と言い切った。
この言葉の裏には、これだけの投球回数を重ねることに耐えられる体力と、投球術を培ってきたという自負もあるのだろう。8月のプロ・アマ交流戦の巨人2軍戦では、8回まで味方失策の出塁のみの無安打無四球投球を続け9回2安打完投勝利。この日の三振はわずかに1つのみだった。
後に原をドラフト1位指名することになるヤクルト・小川淳司シニアディレクターが「打者の打ちごろから、微妙にズラしているので、凡打を取れるのではないでしょうか」と語っていたように、プロにも通じる「打たせて取る投球」が完成されていた。1イニングあたりの平均投球数も、最も多かった3年春の16.9球から、4年春には12.5球にまで少なくなっていた。
「肩の荷が下りました」
最後の秋も、原の快投は続いた。また「原の負担を減らそう」と、特に4年生が奮起。原の勝利数は2つ減り、6勝3敗6完投という結果だったが、見事に2部優勝を果たし、2年ぶりの入替戦出場にこぎ着けた。
その間には、ヤクルトからのドラフト1位指名があり、「神様が自分にもっと神宮で投げなさいと言ってくれているようです」と原は涙し、高橋監督も「プロに行かせるために、親御さんや高校から預かったわけだからね。ホッとしたよ」と、同じく涙した。
迎えた駒澤大との入替戦。初戦こそスクイズによる1失点で、完封した駒澤大・今永昇太に投げ負けたが、2回戦で5回から好救援し戦績をタイに戻すと、3回戦も「この日のために練習してきました」と志願の先発で完投勝利。
1回戦はスライダーを多投、2回戦はシュートやフォークも織り交ぜ、3回戦は再びスライダーを多投するなど、変幻自在の投球で駒澤大打線を幻惑。3試合で21回3分の2、285球を投げ抜いてチームを1部復帰に導いた。その瞬間、原はガッツポーズをするでもなく帽子で顔を隠し、号泣。「肩の荷が下りました」と試合後、素直な気持ちを口にした。
身を削るような戦いで、特にこの1年間を戦ってきた原は、これ以上ない結果をもたらし、東洋大野球部に関わる多くの人たちに幸せを運んだのは間違いない。
来年からは、プロで己の生活を賭けた戦いに身を投じていく。
言うまでもなく厳しい世界ではあるが、原はその不安を力にして、ここまでやってきた。
「正直、自分にはずっと自信がないんです。部屋でも“このままやったら、打たれるんちゃうかな”と思ったり。そうした時は必ず腹筋やったり、インナーを鍛えたり、何かやっていますね」と笑いながら明かしてくれたこともある。
チームのために身を粉にしてやってきた。来年からは、自らの幸せをつかむための野球をして欲しい。だが、「誰かのために」が力になるのなら、それはそれで原らしくていい。
この記事は『野球太郎 No.016 2015ドラフト総決算&2016大展望号』の「野球太郎ストーリーズ」よりダイジェストでお届けしております。
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発売日:2015/11/28 | |
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ISBN:9784331803196 |