8月15日。それは日本が太平洋戦争に敗れた終戦の日。同時に野球界にとっては、戦時中、「敵性スポーツ」として競技そのものを行うこともはばかれた悲しい時代に別れを告げ、新たな一歩を踏み出すキッカケとなった日でもある。
ただ、戦争が終わったからといって、すぐに試合ができるわけではない。物資不足や戦後の混乱で、とても野球どころではない状態だったからだ。そして、もうひとつ、肝心の球場がすぐには使えない状態だったから、という理由も大きい。東西の代表的な球場が戦時下でどんな扱いを受け、どのように復活を果たしたのか? 戦前戦後の球場史を振り返ってみよう。
東京を襲った空襲によって、後楽園球場のスコアボードが焼け落ちてしまったのが戦争終結間近の1945年4月。ただ、それ以前から既に野球場としての機能は失われていた。陸軍の管理下に置かれたグラウンドには食料不足への対応策として、トウモロコシ、ジャガイモ、カボチャ、キュウリなどが栽培されていた。
同様に、神宮球場も1945年5月25日の東京大空襲によって火の海と化した。当時、球場には配給用の薪や炭、建築材料などが積んであったことから火はさらに勢いを増した。数日間燃え続けたあと、残っていたのは鉄骨の残骸だけだった。
戦争によって無惨な姿に一変した野球場。だが、戦後復興のシンボル的な存在として、人々に活力を与えたのもまた野球場だった。
その象徴的な出来事が1949年の日米野球(※3Aのサンフランシスコ・シールズ戦)だろう。初戦の会場となった後楽園球場では、試合前のセレモニーで君が代が流れ、日の丸が掲揚された。戦後の日本で、星条旗と並ぶ形で日の丸が掲揚されたのは、この時が初めてだった。