2007年にオリックスを最下位に沈め、2008年もスタートからつまずき、5月に辞任に追いやられたのはテリー・コリンズ監督だ。
辞任時の会見では「野球への情熱がなくなった」など意気消沈していたが、2009年にはWBC中国代表の監督に就任し、台湾を破って中国代表をWBC初勝利に導くと、2011年にはメッツの監督に就任した。
そして昨年、ついにメッツは15年ぶりのリーグ優勝。確かに就任序盤は奮わない時期もあったが、若手を積極起用するなど、チームの地盤を固めていった。
じつはオリックス時代も金子千尋や小松聖を先発に転向したり、坂口智隆(現・ヤクルト)を粘り強く起用したり、その後のチームに貢献する育成をしていたコリンズ監督。やはり、途中解任をはね返すだけの力、先見の明があったのだろう。
現在、DeNAで辣腕を振るう高田繁GMも“途中解任組”。思い返せば、2010年5月にヤクルトの監督を辞任している。
日本ハム監督時代からずば抜けた実績こそないが、着実にチームを改造する手腕はあった。日本ハムGM時代も含め、ヤクルト時代の悪夢はあるが、編成力には一目置かれていた。
若手陣がキラリと光る現在のDeNA。編成という強烈なウリがあったからこそ、高田GMの今があるのだろう。
1940〜1960年代にかけて南海ホークスを常勝軍団に創り上げた親分・鶴岡一人も、じつは休養経験がある。
2リーグ分裂後の12年間で3位以下が一度もない圧倒的な実績を持つ鶴岡南海だったが、1962年は開幕から大スランプ。8勝25敗1分で最下位に沈んでいた5月26日、「悪い指揮官のいるチームは全滅する」と言い残し、突如休養を発表した。
しかし、これは鶴岡流の喝。蔭山和夫監督代行のもと、「親分を呼び戻せ」と選手たちは一丸となって奮起。8月には3位に浮上し、鶴岡監督を復帰させたのだった。
「俺たちの監督は鶴岡監督しかいない」
選手たちの思いが実を結び、南海はその年、2位でシーズンを終えた。
最下位に沈む中日だが、このときの南海のような発奮を期待したい。「やっぱり谷繁の起用・育成は正しかった」と結果的に語られるような活躍を見せることが、最後の恩返しになるのではないだろうか。
そして、末筆ながら、谷繁監督の今後益々のご活躍をお祈り申し上げます。
文=落合初春(おちあい・もとはる)