“自分はできる”“苦しい時も一番よくて楽しいことを考え、周囲も楽しませる”。そんなバイタリティあふれるスタンスで5カ国のプロ野球を渡り歩いた養父鐵氏。好きなことを“できるはず”とやり続ける人生は今も続いている。
養父氏はユニフォームを脱いだ3年後にあたる2010年、神奈川県藤沢市にルーツベースボールアカデミーを開校。2016年のドラフトでは菊沢竜佑(ヤクルト)、田城飛翔(ソフトバンク)らOBが指名を勝ち取っている。最終回となる第4話では、徳島インディゴソックス(以下、徳島)での1年間にフォーカスしたい。
「開校して5年間は、ルーツベースボールアカデミーをきちんと経営する。ほかのことはやらない。それがビジネスをやっていく上での信用につながります。このスクールを元にいろいろな仕事を考えていますが、ステップアップは、経営できることを証明して以降にやるべきこと」。徳島から監督就任を依頼された経緯を聞こうとしたところ、まず返ってきたのが、この言葉だ。
人を好きになり、人に好かれるオーラをまとう養父氏は、転機があるたびに人とのつながりに救われてきた。一方、勝敗のみで結論づけられるプロフェッショナルの世界で道なき道を切り拓いてきた。それだけに、ルーツベースボールアカデミーの運営も余業ではない。ビジネスも含めて、プロであらねば次のステージはないということだ。
機は熟した、というタイミングで2017年に徳島からオファーが舞い込む。しかし、実は投手コーチとしてのオファーだったという。独立リーグ球団の監督には、現役時代に名を馳せた元プロ野球選手が就くことが多い。養父氏は即答で、その依頼を断った。しかし……。
「でも一度、話をしましょうということで会ったら、『ぜひ監督になってくれ』ということになって」
独立リーグは、プロを目指しながらもレールを踏み外した若者が多く属している。やるべきことはいかに彼らを立ち直らせられるか。徳島のスタッフは、養父氏の経験値とコミュニケーション能力、そして、経営者としての厳しさに賭けた。
養父氏が足を踏み入れた独立リーグに集う若者の多くは、大人としても、選手としても未完成。しかも心のどこかに傷を負い、自信を持てないでいる。そんな難儀な立場に追い込まれ、才能を持て余しながらも、なけなしの夢にかけている。なかには逸材も潜んでいる。ただ、監督になったはいいが、どこから紐解けばいいのか。デリケートだ……。
「選手に初めて会った時、まず自分の方針を伝える前に、一人ひとりと話をしました。どういう経緯で野球を続けてきて、ここの辿りついたのか。そこから、キツい場面で頑張れるのか、それとも逃げるのか、分析しました。その後で、僕のことを知ってもらえるように話を続けました。彼らはレールを踏み外していたとしても、それなりの年齢。小学校低学年の子どもと違って、ちゃんと言葉が伝わります。成長させるのが、難しいことには思えませんでした」
養父氏は同年にコーチに就任した鈴木康友(元巨人ほか)、元々徳島で指導していた駒居鉄平コーチ(元日本ハム)の間にも入って、潤滑なコミュニケーションを心がけた。これまでの経験から「監督とコーチの仲が悪いチームは勝てない」と知っていたからだ。海外で“外国人選手”として揉まれた男は、監督として選手とコーチに方向性を示す大切さを学んでいた。
2017年、徳島は打力を生かして前期1位。しかし、前期を支えた外国人選手のほとんどがチームを去り、現有の投手力を育てるしか術がなくなる。結果、後期は最下位に沈むも、プレーオフに香川オリーブガイナーズとのチャンピオンシップ、信濃グランセローズとのグランドチャンピオンシップを制して独立日本一に輝く。
その間、投手力は見違えるように向上。当初、投手コーチの依頼を断ったが、養父氏は実質、監督兼投手コーチだった。養父氏は「選手としては大成できなかったけど、指導者としてはこれから」というガッツを胸に、これまでの経験を選手に注いだ。
「プレーするのは俺じゃない。やるのはお前だからね。俺は助けてあげられない。自分で考えて、自分で行動して、自分が納得しない限りいい結果は出ないよ」
養父はこう言い続けた。そして、日産自動車時代にプロ入りを賭けて毎日1000回の腹筋と、大型トラックのタイヤを引いて走るというノルマを自らに課し、遠征時のバスにもそのタイヤを持ち込んだ……というエピソードを明かした。その裏には「僕はできなかった人間だから、できない人の気持ちがわかる。『あと一歩だ。頑張れよ!』と背中を押してあげたかった」という思いが潜んでいる。
ドラフト3位で西武に入団した伊藤翔は、昨春、18歳で徳島にやってきた。初めてのひとり暮らしを見知らぬ土地で始めた。ドラフト直後、『野球太郎』の取材で伊藤は「ピッチャーはひとり。マウンドに立ったら助けてくれる人はいない」と、養父氏にいつも言われていたと証言している。
また、過去4シーズン、独立リーグで20試合しか投げていなかったミャンマー出身のゾーゾー・ウーは、19試合に登板。中継ぎとして活躍した。セットアッパーの相澤健勝は防御率が8点台から2点台に改善。大藏彰人は中日育成1位を勝ち取るまでに成長。多くの選手たちが、養父氏と出会い、“とっかかり”を見つけた。
養父監督が徳島で掲げたスローガンは「プロフェッショナル」。それは自主性?
「自主性というか……。結局、人に言われないとできない選手はプロ野球選手にはなれない。だから、自分で考えて“やる”と決めたことをやり切ることが大事だし、それが自信につながっていくんです」
そして、プロであることの厳しさを続けてこのように述べた。
「プロの1軍は育成じゃないから、勝つか負けるか、生きるか死ぬか、イエスかノーか、それだけ。結果が出なければクビになる世界です。とにかく自分で考えて実行しない限り通用しないという意識を植えつけたかったんです。それはすべて当たり前のこと。理解してくれた選手は皆、成績が上がりました」
プロ入り勝ち取った伊藤と大藏には「今年、結果を出さないとプロにはいけないぞ」と腹を括らせたという。就任1年で独立リーグ日本一、プロ野球選手を輩出するという目標を果たした養父氏は徳島を去った。未練はなかった。
今、海外5カ国を渡り歩いた経験値、ルーツベースボールアカデミーの運営、徳島で得た自信を元に、養父氏は先を見ている。
「これから何ができるかわからないけど、僕にできることはいろいろあると思う。海外とも野球を通じた仕事をしていきたいですね」
「野球にはどんな力がありますか?」。最後に聞いた。
「僕は厳しい大学にもいたし、名門の社会人チームにもいたし、海外も渡り歩いた。そこで感じたのは野球はやらされてやるものではないということ。ミスした時に怒られて萎縮する子が多いけど、そうじゃなくて、できなかったらできるまでやり続ければいい。人生は思う通りにはいかない。でも、それを認めてどう進んでいけるか。失敗した時に、どう立ち直れるか。野球を続けながら、体現してほしい」
養父氏は“やりたいこと”を貫いてきた。「アイツ何やってんだ、アホだな」と言われた時は「俺にはやることがあるんだ!」と負けん気を燃やしてきたという。これからはどんな道を切り拓いていくのか。気になってしかたがない。
(※文中一部敬称略)
協力:日本プロ野球OBクラブ