映画『42 〜世界を変えた男〜』が話題となっている。タイトルの「42」と黒人選手として初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンが付けていた背番号で、現在MLB全球団はもとより、アマチュア野球や独立リーグでも永久欠番になっている、アメリカ野球界においてとても神聖な番号だ。
そして、この「42」と縁深いのが、日米8球団でプレーを重ねた男・木田優夫だ。上梓したばかりの『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』の中で、背番号「42」との思い出が綴られている。今回はそんな「木田優夫と背番号」の秘密から、この本の魅力を紹介したい。
木田優夫の背番号の歴史は、そのまま彼の野球人生を表している。過去、所属球団数よりも多い9つの背番号を背負ってきたのだ。年代順に振り返ってみよう。
「47」巨人時代(1987年〜1992年)
「19」巨人時代(1993年〜1997年)
「20」オリックス時代(1998年)
「41」タイガース時代(1999年〜2000年途中)、ヤクルト時代(2006年)
「11」オリックス時代(2000年途中〜2001年)
「60」ドジャース時代(2003年〜2004年途中)
「35」マリナーズ時代(2004年途中〜2005年)
「42」ヤクルト&日本ハム時代(2007年〜2012年)
「12」石川ミリオンスターズ時代(2013年〜)
このうち、「42」を付けたのが、メジャーから日本球界に戻ったあとの、ヤクルトと日本ハム時代の6年間(2007〜2012年※2006年のみ「41」)だ。《アメリカでは決して付けられないからこそ、あえて日本でこの番号を背負うことに決めた》と、その理由を明かしている。
この番号以外でも、背番号にまつわる実に様々なエピソードが紹介されているのが本書の特徴のひとつでもある。他のエピソードもいくつ見ていこう。
ドラフト1位でジャイアンツに入団した時の背番号は「47」。入団会見で、「メジャーリーグっぽい番号で氣に入りました」とコメントしたことが紹介されている。当時の本人はもちろん知る由もないが、後年、本当にメジャーリーガーになるのだから、人生は面白い。
その後、主力投手の一人となった93年からは、背番号は「19」に変更。この数字は、往年の小林繁や、その後には今季MLBで大活躍した上原浩治(レッドソックス)も背負った、まさにジャイアンツのエース番号のひとつであり、今年のゴールデンルーキー・菅野智之もこの背番号だ。
本書の中でも菅野に対し、《僕はなれなかったけど、小林繁さんや上原浩治君といった偉大な19番になって欲しい》と、先輩「19」番からエールを送っているのがなんだか微笑ましい。
98年にオリックスへトレード移籍した際は「20」だった背番号。しかし、MLBのデトロイト・タイガースを経て、オリックスに復帰した際は「11」に変更となった。この「11」は、阪急・オリックスの大エースで、当時引退したばかりの「酒豪エース」こと佐藤義則が付けていた番号だった。
このことを振り返り、《義則さんからすれば「なんでお前がつけんねん!」と思ったかも。いや、今でも思っているかも。いつか謝りたい》と綴っているのだが、楽天投手コーチとして日本一の美酒に酔いしれたばかりの今こそ、謝りに行く絶好のチャンスではないだろうか。
そして、今年所属したBCリーグ・石川ミリオンスターズでの背番号は「12」に。この番号は木田の誕生日である(9月)12日に由来しているのだが、当初は、日本ハム時代同様、「42」を付ける予定で、入団決定後に急遽変更することになったという。
その理由には、ある芸能人の存在が関係しているのだが、詳細についてはぜひ、本書を読んで確かめていただきたい。
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