夏の甲子園の前身である「全国中等学校優勝野球大会」。その第1回が行われたのは1915年で、今から100年前のこと。今回は第1回大会から昭和時代に入る前の大正時代、いわゆる高校野球全国大会の黎明期のなかから、選りすぐりの決勝戦の模様をお伝えしよう。
1915年(大正4年)
――第1回大会
秋田中 |000|000|100|000|0|1
京都二中|000|000|010|000|1×|2
記念すべき第1回大会は、甲子園球場ではなく大阪の豊中グラウンドで開催された。ちなみに、試合の前後に両チームの選手が本塁を挟んで、審判員を中心に整列して挨拶を行うことも、この第1回大会から始められた。
決勝戦は0−0のまま7回に突入。秋田中は2死から先制点を奪うも、京都二中は8回、四球と失策で同点に追いつく。両者譲らず延長13回、京都二中は1死二塁のチャンスで、打球はハーフライナー。これを二塁手が落球し、慌てて一塁へ送球。ところが今度は、一塁手が送球を落球して、アウトが増えないどころか、走者はホームへ果敢に突っ込む。急いでホームに送球するも間に合わず、サヨナラで京都二中が優勝した。
1917年(大正6年)
――第3回大会
愛知一中 |000|000|000|000|01|1
関西学院中|000|000|000|000|00|0
この大会から、開催地は鳴尾球場に移った。
決勝に進んだ愛知一中は、初戦で長野師範に敗れていた。現在ならもちろん、これで終わり。しかし、当時は1回戦敗退チームから、他の2校に勝利したチームが復活者として、4強入りするという規定があったのだ。
さらに愛知一中には幸運が訪れる。関西学院中との決勝戦は6回まで進み、愛知一中は敗色濃厚。ところが、そこで夕立が強くなりノーゲーム。再試合となった翌日の試合は延長14回にも及び、愛知一中の打者の当たりそこねの三塁ゴロが決勝点を呼ぶヒットとなって、優勝を飾ったという。
1918年(大正7年)
――第4回大会
米騒動の影響で大会中止
1918年8月14日に開幕予定だった第4回大会。前日の抽選会も行われ、いよいよ開幕日を待つばかり。ところが、米騒動の影響で、まさかの大会中止となった。
米騒動とは、米の値段高騰を理由に、各地で起こった暴動のこと。富山県魚津町を皮切りに、全国的に暴動が起こっていた。実際に大阪や神戸でも騒動が起こり、大会はあえなく中止となった。
1921年(大正10年)
――第7回大会
京都一商|003|100|000 |4
和歌山中|105|013|24×|16
第1回大会から出場を続けている和歌山中。毎年、優勝候補に挙げられるものの、栄冠を掴むことができなかった。
しかし、この大会では打棒が爆発。1回戦は神戸一中を20−0で、2回戦は釜山商を21−1で、準決勝は豊国中を18−2で撃破。決勝も16−4と圧倒的な打撃力で勝利し、見事、全国制覇を成し遂げた。
4試合で62安打、本塁打3本、三塁打5本、二塁打11本、チーム打率.358、総得点75点は、現在の甲子園大会では考えられない記録である。
1922年(大正11年)
――第8回大会
和歌山中|000|000|053|8
神戸商 |300|100|000|4
前年に続き、和歌山中が全国制覇を成し遂げた。神戸商との決勝戦は、7回まで0−4と劣勢を強いられていたが、8回に和歌山中の打線が爆発。連続安打で5点を奪い逆転すると、9回にも3点を取ってダメ押し、8−4で勝利した。こうして和歌山中は、大会史上初となる2年連続優勝の偉業を成し遂げたのだった。
1924年(大正13年)
――第10回大会
松本商|000|000|000|0
広島商|000|000|03×|3
この年から、甲子園球場で夏の大会が開催されるようになった。前年まで開催されていた鳴尾球場では、押し寄せる観客を収容できなくなったのがその理由。1924年3月に起工して、わずか4カ月という期間で甲子園球場は完成したのだった。
記念すべき甲子園球場で開催された初めての決勝戦は広島商が優勝。大会史上、初めて中学校を抑えて、商業学校が日本一に輝いた。さらには神戸より西の地区に、初の優勝旗が渡った。この時に監督を務めていたのが石本秀一だ。
剛球自慢の宮武三郎、後にプロで活躍する水原茂(元巨人)、強打の左打者・本田竹蔵を擁する高松商が、念願の夏の優勝を果たした。
東山中、静岡中、大連商に勝利して、決勝戦では早稲田実を5−3で破り全国制覇。宮武、本田の左右の投手を併用したのが勝因で、当時では珍しい継投策が光った。
高松商は1924年春、第1回のセンバツでも優勝しており、初めて春・夏の優勝旗を揃えたチームとなった。また、初めて四国の地に夏の大会の優勝旗を持ち帰った学校にもなった。
(文=オグマナオト/イラスト=横山英史)