いよいよ、甲子園大会も決勝戦を残すのみとなった。決勝戦のあと、「栄冠は君に輝く」の大会歌とともに場内一周する優勝チームの姿を見ると、なぜか夏の終わりを感じてしまうのが高校野球ファンというものだろう。高校球児にとっても、誰もが夢見る晴れ晴れしい光景だ。ところが、過去にはこの場内一周を断った優勝校が存在する。なぜ、場内一周を断ったのか? 大会の過程も含め、当時の様子を振り返ってみたい。
前代未聞の事件が起こったのは、今から96年前の1919(大正8)年。第5回全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)での出来事だ。まだ甲子園球場が完成前で、鳴尾球場で大会が行われていた時代。全国134校が参加して、14校が栄えある全国大会に出場した。
その大会が初出場だった神戸一中(現神戸高)。全国でも有数の進学校で、この年の高等学校への入学率(今でいう大学への進学率)は全国1位を誇る、文字通り「文武両道」の模範校でもあった。その神戸一中は1回戦で、第1回大会から5年連続出場の和歌山中(現桐蔭高)と対戦し、なんと、3−1で勝利するという大金星をあげた。その後も、あれよあれよと勝ち進み、いよいよ決勝戦。現在は信州大学に吸収された長野師範学校と、初出場初優勝を懸けて戦った。
試合は神戸一中が2点を先制するも、6回表に長野師範学校が同点に追いつく。しかし8回裏、神戸一中が猛攻をみせて5点を奪い、結局、7−4で栄冠は神戸一中に輝いたのだった。
そして試合後、事件は起こった。
閉会式後、いよいよ優勝した神戸一中ナインが場内を一周しようか、というとき、当時の主将・米田信明選手が場内一周を拒否。米田氏は後に「我々は何も考えずに一試合一試合に集中して優勝した。母校の名誉のために頑張っただけで(閉会式後の行事になっていた)場内一周について、我々は見世物ではないのだから断った」と語っている。
現在、甲子園大会を運営している日本高等学校野球連盟(高野連)の定めたルールは絶対だ。例えば、近年では、過去に出場校のユニフォームに入っている刺繍が好ましくないとして刺繍をはずさせたり、選手が培ってきた打撃スタイルに変更を求めるような通達を出したり、高野連の“干渉”が、物議を醸したこともあった。
当時、大会を運営していたのは高野連の前身の全国中等学校野球連盟。どの程度、権力を用いてコントロールしていたのか、今となってはハッキリしないが、それまでの慣習を破った行動はやはり前代未聞といえるだろう。今では考えられないような気概を持った神戸一中ナイン。学業優秀の選手たちが、理路整然と自分たちの意見を大人に向かって主張する。こんなチームは二度と現れないかもしれない。ある意味、応援したくなるチームだったのではないだろうか。