今年は1915年に「第1回全国中等学校優勝野球大会」が開催されてから節目の100年目。各メディアで高校野球100年の歴史を振り返る企画が組まれている。「名勝負伝説」もそんな人気企画の1つだ。
ただ、「名勝負」とひと口に言っても、試合単体で盛り上がる一戦もあれば、組み合わせそのものが因縁を含むために盛り上がるケースもある。実際、過去には3季連続で同じカードが組まれ、そのいずれの試合も激闘となった因縁の対決がある。高校野球100年の節目の年だからこそ、そんな「因縁の対決」を昭和、平成それぞれで振り返ってみよう。
1960年夏から1961年夏にかけて3度対決したのが法政二と浪商(現大体大浪商)だ。法政二には柴田勲(元巨人)、浪商には尾崎行雄(元東映)という、球史に名を残すスター選手が在籍し、鎬(しのぎ)を削ったことで甲子園を大いに盛り上げた。
最初の対決は1960年夏の2回戦。このとき、法政二の柴田は2年生で、浪商の尾崎は1年生エースとして試合に臨んだ。この試合で勝利をおさめた法政二は、以降の試合でも好調を維持して大会を制した。
2度目の対戦は1961年春の準々決勝。この試合も法政二が制し、夏春の連続優勝につなげた。
そして3度目の対戦が1961年夏の甲子園・準決勝。「今度こそ」という浪商の執念が実って延長戦の末に勝利をおさめ、次の決勝戦も制して見事優勝を飾ったのだ。
近年の甲子園における「因縁の対決」といえば、1998年春から1999年春にかけて3度対戦した横浜とPL学園の対戦だろう。特に1998年の春・夏の戦いは、横浜の春夏連覇や「松坂世代」の物語を語る上でも外すことができない戦いだ。
最初の対戦は1998年春の準決勝。PL学園は稲田学と上重聡の2枚看板、一方の横浜は絶対的エース・松坂大輔(現ソフトバンク)の投げあいとなった。結果的には、9回にスクイズでもぎ取った勝ち越し点を松坂が守りきり、3−2で横浜が勝利。横浜は次の決勝戦も勝ち、センバツを制した。
2度目の対戦は1998年夏の甲子園・準々決勝、あの伝説の「延長17回の死闘」だ。センバツとは打って変わって打撃戦となったこの試合は、PL学園がリードし、横浜が追いかける展開で試合は進んだ。しかし、松坂が尻上がりに調子をあげて、後半は横浜ペースに。PL学園も延長で2度も追いつく執念をみせたが、延長17回表に飛び出した常磐良太の2ランを松坂が守り抜き、横浜が勝利。