先発投手陣のさらなる整備を計るDeNAが東都大学リーグの常勝・亜細亜大のエースを外れ1位で獲得。日米大学野球で最優秀投手に選ばれた逸材は、亜細亜大学でエースの責任感とプライドを身につけたという。
1戦目の先発マウンドをはく奪されるなど、順調とは言えなかった大学ラストシーズン。いや、優勝こそしたが春も決して絶好調だったわけではない。苦しむことが多かったこの1年間。スタンドから見守った大学野球最終戦の数時間後、外れ1巡目ではあったが2球団から1位指名を受けた。抽選の結果、DeNAが交渉権を獲得。4年前にはかなわなかったプロへの道が、ついに開かれた。
山崎が帝京高時代にエースナンバーを背負ったのは3年春のセンバツ終了後。同級生の鈴木昇太(東海大)が1年時からほとんどの大会で1番を付け、1学年下には伊藤拓郎(前DeNA)がいた。3年夏の東東京大会には140キロ台のストレートを投げる投手が4人もベンチ入りする充実ぶり。
高校時代の山崎も注目をされていなかったわけではないが、なかなか主戦で投げられなかった。
2度出場した甲子園ではそれぞれ1試合、中継ぎで登板するに留まった。
3年時にはプロ志望届を提出したが指名漏れ。「野球をやめようかと思った」と当時を振り返る。
「今思えば、よく出したなとは思います。でもプロを目指してダメだったという悔しさ、悲しさがあって、これからどうしようかなと考えた時に、野球をやめて違う道に進むのもいいのかなと考えたこともありました。でも考え直してやっぱり自分には野球しかないなと思えたのは、甲子園にも出ることができて、そこで投げさせてもらって、実力も上がったと思えたからです」
「ついていけるのだろうか?」という不安の中でスタートした大学野球生活も、経験を積むことで徐々に自信をつけていった。
今でこそ制球力に優れているが、大学入学前はどちらかというと制球にやや難があった。
「投げて覚えたというのが一番ですね。大学に入ってピッチングの球数が多くなったので、練習量で補ってきました。ネットスローも結構やりましたし、ボールを投げるということは、他の大学の誰よりもやったと思います」
入学当時、2学年上に東浜巨(ソフトバンク)、1学年上には九里亜蓮(広島)がいた。そのために登板機会はなかなか巡ってこなかったが、それでも1年目から神宮のマウンドを踏んだ。
「投げたいという気持ちを強く持っていたので、いつになったら投げられるんだろうという心境にもなった。それだけに、神宮のマウンドに立った時は嬉しかったですし、気持ちをボールに込めて投げることができました」
1年秋には明治神宮大会で先発マウンドを踏みしめた。唯一打たれたヒットがタイムリーで、0対1で敗戦。7回1安打1失点という鮮烈な印象を残してルーキーイヤーを終えた。
2年目のシーズンも同様だった。東浜、九里の二本柱を割って入り込むことは難しく、中継ぎとして登板を重ねた。
リーグ戦初先発は3年春の開幕カード、第2戦目だった。青山学院大を相手に7回5安打無失点9奪三振の好投。翌カードは1戦目の先発を任され、初の完投勝利を完封で飾った。
主戦として投げる初めてのシーズンで、まさにエース級の活躍を見せた山崎。防御率はリーグトップの1.10を記録した。
同年夏に行われた日米大学野球。山崎は初めて日本代表に選出されると、抑えを任された。
5試合中4試合に登板して、被安打わずか1、無失点の大活躍で日本を優勝に導いた。そして最優秀投手賞を獲得した。
だが秋のシーズンで山崎に試練が訪れる。優勝を決めて迎えた最終節でベンチから外されたのだ。体力的な疲れから結果を残せず、低迷。「もう使わない」と、はっきり生田勉監督から言い渡された。
しかし、それは期待されているからこその言葉。この一言にはっと我に返った山崎は、明治神宮大会までの間、陽が昇る前から日付が変わりそうになるまで、1日中グラウンドに立ち続けた。
マウンドに立つことが当たり前になり、登板できる喜びを忘れていた。スタンドから試合を見て、そんな初心を取り戻せたことが何より大きかったという。
信頼を再びその手に得た山崎は、神宮大会3試合すべてに中継ぎとして登板。無失点の好投を見せてチームを日本一へと導いた。
次回、「最上級生としての自覚」
(※本稿は2015年11月発売『野球太郎No.013 2014ドラフト総決算&2015大展望号』に掲載された「32選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・山田沙希子氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)