プロ3年目の1985年に12勝を挙げて脚光を浴びた斎藤。その後の3年間は伸び悩んだ時期となったものの89年、サイドスロー転向のきっかけを作った藤田元司監督が復帰すると、開幕から先発ローテーションに入る。
ターニングポイントとなったのは5月10日、横浜スタジアムでの大洋(現DeNA)戦。7回まで好投を続けてきた斎藤は、8回に1点差とされ、なおも1死満塁のピンチを迎える。
この場面で藤田監督はベンチから動かず、斎藤に運命を託した。斎藤はこのピンチを併殺打で切り抜けると、最終回を0点に抑えて3勝目をマーク。この一戦で自信をつけた斎藤は、完投勝利を重ね、5月30日の大洋戦から3試合連続完封と、圧巻の投球を見せる。
そして7月15日、本拠地・東京ドームでのヤクルト戦。斎藤は完封で勝利し、鈴木啓示(近鉄)の持つNPB記録を塗り替える11試合連続完投勝利を樹立した。
この年は20勝を挙げ8年ぶりの日本一に大きく貢献。巨人のエースとして認められることとなった。
斎藤が巨人のエースとしての矜持を見せたのが、「国民的行事」とまで言われた1994年10月8日の中日戦だった。
どちらもシーズン最終戦、そして勝てばリーグ優勝という大一番。巨人は先発・槙原が2回途中で降板すると、2日前のヤクルト戦で先発した斎藤を中1日で投入する。
無死一、二塁の場面でマウンドへ上がった斎藤は、見事なフィールディングで今中のバントを処理し三塁封殺。後続も抑えてピンチを脱する。
すると直後の3回表に落合博満のタイムリーで巨人が勝ち越し。4回、5回と追加点を奪っていく。打線の援護を受けた斎藤は、右足内転筋の痛みに耐えながらマウンドに立ち続け、6回まで1失点に抑える好投で3番手の桑田にバトンを渡す。
その後、桑田が無失点に抑え6-3で巨人が勝利。三本柱による投手リレーで、巨人がリーグ優勝を決めた。同時に斎藤は勝利投手となり14勝目を挙げた。
斎藤は現役時代、エースの証明といえる開幕戦に5年連続を含む6度も先発投手を任されてきた。
なかでも圧巻だったのは1994年から1996年にかけての3年連続開幕戦完封勝利。94年は苦手としている広島戦での登板だったが、プロ2年目の3番・松井秀喜が2本塁打。FAで移籍してきた4番・落合も本塁打を放ち斎藤を援護。斎藤は広島打線に付け入る隙を与えず、11-0の圧勝で、幸先良いスタートを切った。
翌1995年のヤクルト戦では、さらにその投球に磨きがかかり、3安打完封の2-0で2年連続完封勝利を収める。そして1996年、得意とする阪神との開幕戦に臨んだ斎藤は、打者27人に対してわずか1安打に抑え、あわや完全試合という投球内容で9-0と快勝。
1993年の開幕戦では7回2失点で勝利投手となっているため、開幕戦では4年連続で白星と、無類の強さを発揮した。
続く1997年も開幕投手を任された斎藤だったが、ヤクルト・小早川毅彦に1試合3本塁打を許して敗戦投手となり、開幕戦の完封記録がストップ。それでも「開幕戦=斎藤雅樹」という印象は未だに強い。
文=武山智史(たけやま・さとし)