少ない球数で勝つためには当然、打たれないこと、が前提となる。その意味でも、完全試合達成者の球数は少ない。
1978年のセンバツ1回戦、前橋対比叡山の試合で、甲子園大会史上初となる完全試合を達成したのが前橋の松本稔。このとき投じた球数が「78球」。ボール球はわずか11球で、1時間35分という短時間の試合だった。
この78球の記録を塗り替えたのが、2007年センバツでの関西・川辺郁也。2回戦の創造学園大付戦で9回を投げ、「77球完封勝利」をおさめている。ちなみにこの川辺、背番号は「5」。本来のエースがケガのため登板できず、試合当日に急遽先発が決定。準備もままならない中でみせた快投だった。
なお、負け投手も含めると、1960年のセンバツ大会で秋田商・今川敬三が「74球」完投。ただし、このときは8回完投(先攻めのため)での記録だった。
1978年、夏の甲子園 2回戦、鶴商学園(現・鶴岡東)対日田林工戦で、鶴岡学園の君島厚志が0対3と負け投手ながら「68球」で完投した。
すると翌1979年の甲子園2回戦、倉敷商対浪商(現・大体大浪商)戦で、倉敷商の片山勝が記録更新。0対4での敗戦、先攻めのため8回完投ながら「65球」という記録を作っている。
ただ、やはり勝った試合でこそ最少投球にも意味がある、というもの。勝利投手では、1985年夏の甲子園、東洋大姫路のサブマリン・豊田次郎(元オリックス)が高岡商戦で記録した「74球完封」、というものがある。試合時間はわずか1時間21分だった。
少ない球数で勝つ。それはもちろん理想ではあるが、そう簡単に狙ってできないのもまた事実だ。近年では、桐光学園時代の松井裕樹(現・楽天)が「奪三振マシン」から打たせて取るピッチングへとモデルチェンジを目指し、結果として最後の夏に調子を崩してしまった事例もある。
打たせて取るピッチングで天下を穫った男、といえば、やはりPL学園時代の桑田真澄(元・巨人ほか)が思い浮かぶ。桑田はあるインタビューで、「いかにして少ない球で抑えるか」というテーマでこんなコメントを残している。
《僕は低めだけでなく、調子がいいときは、高めのストライクゾーンに投げてフライを打たせたり、カーブをど真ん中に投げて簡単にカウントを稼いだりしていました。ほかには投球プレートを一塁側や三塁側と踏み分け、変化をつけて投げていました。真っすぐも3段階の速さを使っていました。すべて甲子園で優勝するためには、という逆算から出た考え方でした》
(『甲子園ヒーロー列伝』より抜粋)
実際、この投球スタイルで、「82球完封」(1985年センバツ・天理戦)という省エネ試合の経験があるのだから説得力があるというもの。「甲子園で優勝するためには、という逆算から出た考え方」が実践できたからこそ、甲子園20勝投手になれたわけだ。
横浜・松坂大輔の延長17回250球完投勝利。早稲田実業・斎藤佑樹の1大会(7試合)948球。済美・安樂智大のセンバツ5試合772球……甲子園の歴史を紡いできた伝説の鉄腕たち。それもまた高校野球の魅力を語る上では欠かせないドラマだ。
だが、そろそろ違うドラマを求めたっていい。今年の夏は、少ない球数でチームに勝利を導いたエースにこそ、大きな賛辞をおくってみたい。
文=オグマナオト