いよいよ開幕が間近に迫ってきた夏の甲子園大会。今年は1915年に第1回大会(当時は「全国中等学校優勝野球大会」)が開催されてから100年ということもあって、例年以上に「歴史」の重みを感じる大会になりそうだ。開場以来、長年に渡って球児たちの青春を見守ってきた甲子園球場のスコアボードにも、数多くのエピソードがある。そこでスコアボードの変遷から甲子園大会の歴史を振り返ってみたい。
甲子園球場が完成したのは1924年。だが、このときはまだスコアボードは存在しなかった。工事の開始から完成までわずか4カ月半。さすがにスコアボードにまでは手が回らなかったのだ。
スコアボードが完成したのは翌1925年。木製でチーム名と点数を表示するだけのシンプルなものだった。この初代スコアボードが脚光を浴びた試合といえば、1933年8月19日に行われた第19回全国中等学校優勝野球大会の準決勝・中京商(愛知/現中京大中京)対明石中(兵庫/現明石)の一戦だ。高校野球史上最長記録である「延長25回」の死闘となった。この試合、両投手の息詰まる投手戦で、スコアボードにはずっと「0」の表示が並んだ。
延長戦になってもスコアは0−0のまま。しかし、この初代スコアボードは16回までしか表示ができず、17回以降は球場職員が「0」の板を釘で打ちつけながら継ぎ足していかなければならなかった。さらに用意していた「0」の板もなくなるとペンキで書いて継ぎ足したという。
結局、0−0のまま試合はさらに進み、大会本部が「勝負がつかなくても延長25回で打ち切る」と宣言した、その延長25回裏にドラマが生まれる。中京商は無死満塁のチャンスを作ると、内野ゴロの送球ミスの間に三塁ランナーが生還し、サヨナラ勝ちをおさめた。スコアボードに並んだ「0」の数は実に49。この試合で何よりスゴいのは、中京商の吉田正男が336球、明石中の中田武雄が247球でそれぞれ完投したことだろう。
前年の「延長25回継ぎ足しスコアボード」はさすがに見辛いという理由もあって、翌年、スコアボードの全面的な改修が行われた。ちょうど甲子園誕生10周年にあたる1934年、スコアボードは木製からコンクリート製に変わり、表示は18回までできるように。また、チーム名と点数表記以外にも選手名が表示される大きな変更が加えられた。
この選手名や点数は、職人芸ともいわれた独特の明朝体で板に手書きされていた。選手1人分の板は約7〜8キロと重い上に、狭いスコアボード内で作業が行われるため、夏場は猛烈な暑さに耐えなければならない重労働だった。戦争も乗り越えたこの2代目スコアボードは、約半世紀に渡って使用された。
約60年ぶりに甲子園に「甲子」の年が巡ってきた1984年、スコアボードが電光掲示板方式に変わり3代目に移行した。人力によって50年使われ続けた2代目スコアボードから一気に技術革新が進んだが、変わらなかったものもある。それは、見た目の印象だ。
3代目のスコアボードは高さこそ大きく増したが、形や色合いは2代目とよく似ていた。また、電光掲示板に表示される点数や選手名の書体も、手書き時代の書体に似せて作られていた。伝統を重んじる甲子園球場らしい粋な計らいといえるだろう。
このスコアボードを巡る珍事件といえば、1986年、第68回大会での宇都宮工対桐蔭の一戦が挙げられる。試合がはじまった時、宇都宮工はスコアボードに「宇都宮」と表示された。当時は、3文字しか校名が入らなかったためだ。ところが、この表示を見た宇都宮工の応援団が「栃木県では宇都宮工業は『宇工』と呼ばれているから『宇工』で表示してほしい」と大会本部に抗議。本部はその勢いに圧され、試合中にもかかわらず「宇都宮」から「宇工」に表示名が変更された。
1984年以降は、スコアボードの表示方法の変化がテーマとなる。1993年にスコアボードがカラー化。右半分がオーロラビジョンとなり、動画も流すことができるようになった。さらに現在ではスコアボードのLED化が進み、よりクリアな映像を省電力で楽しめるようになっている。
このように、姿形は変われども、ずっと同じ場所で球児たちの青春を見つめ続けてきたスコアボード。この夏はいったい、どんなプレーを目撃し、オーロラビジョンに映し出してくれるのだろうか。