今年も残すところあとわずか。2015年、それは数多くの偉大な野球人が現役に別れを告げた年、として後々まで語られるに違いない。そして、グラウンド内だけでなくグラウンド外でも、偉大な先人たちとの別れがあった。
台湾出身でプロ野球の中日、阪神でプレーした大豊泰昭氏が急性骨髄性白血病のため名古屋市内の病院で逝去した。51歳だった。
1963年、台湾出身。1989年にドラフト2位で中日に入団。一本足打法で1994年に38本塁打、107打点で2冠に輝く。1998年に阪神に移籍。2001年に中日に復帰し、翌年、現役引退。引退後は中国料理店を経営していた。
通算成績
1324試合、打率.266、277本塁打、722打点、本塁打王1回、打点王1回、ベストナイン1回(いずれも1994年)
南海(現ソフトバンク)などで内野手として活躍した富田勝氏が肺がんのため大阪市の病院で逝去。68歳。
1946年、大阪生身。法政大では田淵幸一、山本浩二との「法政三羽ガラス」で人気選手に。1969年にドラフト1位で南海に入団。その後、1973年から巨人、1976年から日本ハムで、1981年は中日でプレーし1982年に引退した。
通算成績
13203試合、打率.270、107本塁打、451打点。プロ野球史上2人目の全球団本塁打達成者。
巨人V9時代の「左のエース」、高橋一三氏が都内の病院で亡くなった。69歳。
1946年、広島県出身。V9初年度の1965年に巨人に入団。4年後の1969年、最多勝、最優秀勝率、沢村賞を獲得し「左のエース」と呼ばれた。1975年オフ、富田勝とともに張本勲との交換トレードで日本ハムに移籍。1983年の現役引退は古巣でコーチや2軍監督を歴任。ダイナミックな投球フォームは、アニメ「巨人の星」の主人公、星飛雄馬のモデル、とされている。
通算成績
595試合167勝132敗12セーブ。最多勝1回(1969年)、最高勝率1回(1969年)、沢村賞2回(1969年、1973年)、ベストナイン2回(1969年、1973年)。
日本プロ野球選手会事務局長の松原徹事務局長が神奈川県川崎市内の病院で逝去した。58歳。
1957年、神奈川県出身。1981年に神奈川大からロッテオリオンズに球団職員として入団。1983年には当時最年少で1軍マネジャーに就任。その後、1988年に選手会事務局入りし、2000年4月から事務局長を務めた。
2004年の球界再編騒動ではプロ野球史上初のストライキを決行。2011年の東日本大震災の際には、球団サイドの意向ではなく、世論と選手会の意向をくんで開幕日を延期させるなど、交渉ごとの窓口として活躍。プロ野球選手の地位向上にも尽力した。
MLBのヤンキースで1940年代から1960年代にかけ活躍した名捕手、ヨギ・ベラ氏が逝去。90歳だった。
1925年、アメリカ・セントルイス出身。1946年にヤンキースでデビュー。以降、メジャー史上最多の10度のワールドシリーズ制覇の偉業を残した。オールスターゲームには15度選出。1965年にメッツに移籍し、同年限りで現役引退。現役引退後、監督としてもヤンキース、メッツの両球団をワールドシリーズに導いている。
通算成績
2120試合、打率.285、358本塁打、1430打点。背番号8は永久欠番。
阪神のゼネラルマネジャー(GM)、中村勝広氏がチーム遠征先の東京都内のホテルで心肺停止状態の姿が発見され、死亡が確認された。66歳だった。
横浜(現・DeNA)、近鉄で主にリリーフ投手として活躍した盛田幸妃氏が横浜市内の自宅で亡くなっていたことが分かった。45歳だった。
1969年、北海道出身。函館有斗(現・函館大有斗)時代には春夏合わせて甲子園に3度出場した。1988年にドラフト1位で大洋(現・DeNA)に入団。1992年には主に中継ぎながら規定投球回に到達し14勝6敗2セーブ、防御率2.05で最優秀防御率のタイトルを獲得。佐々木主浩との「ダブルストッパー」で人気を博した。
その後、近鉄時代の1998年に脳腫瘍の摘出手術。復帰は絶望視されていたが、翌1999年に1軍マウンドに復帰。2001年にはカムバック賞も受賞し、「奇跡のリリーバー」と呼ばれた。
通算成績
345試合、47勝34敗29セーブ、防御率4.05。最優秀防御率1回(1992年)、カムバック賞1回(2001年)。
ここで取りあげた方以外にも、かつてプロ野球で、アマチュア球界で活躍され、今年鬼籍に入った方はいる。そのすべての方にむけて……合掌。
文=オグマナオト(おぐま・なおと)