西川遥輝(現日本ハム)のことを初めて知ったのは彼が1年春。ただ、試合を見たわけではなく、和歌山大会で3試合連続を含む4本のホームランを打った凄いヤツがいる、という噂を聞き、その名を知ったのだ。そこで僕の頭には、またしても智辯和歌山っぽいスラッガーが登場してきたのだろう、と想像が膨らんだのだった。
ところが、間もなく訪れた練習グラウンドで目にしたのは、色白で華奢で甘いマスクの走攻守がしっかり揃ったタイプ。何とも智辯和歌山っぽくない選手だった。フリーバッティングの打球もあまり勢いよくは飛んでいかず、軽く眺めただけの初取材は「何者か」の判断がつかないまま終了となった。
そんな西川に「2年後のドラフト1位候補」を予感したのはそれから約3カ月後に行われた夏の甲子園だった。地方大会前に右手の有鈎骨(ゆうこうこつ/手の平下の手首に近い部分)を骨折。智辯和歌山流の150キロ超えのマシン打撃の代償でもあったが、それでも初舞台には患部をサポーターとテーピングで固めて2回戦から強行出場。「しっかり守って、打席ではフォアボールでも選んで走ってくれたらいい」(高嶋監督)と9番・三塁手での登場だったが、常葉学園菊川との準々決勝で西川は忘れられない一発を放ったのだ。
一発といっても結果はファウル。しかし、その一振りで僕は西川の才能に惚れた。あれは2回に回ってきた第1打席。相手右腕が投げた低めのスライダーを振り抜いた。体に巻き付くように内から振り出されたバットが投手側へ伸びやかなフォローを描くと、打球は大きな弧となりライトスタンドへ飛び込んでいったのだ。残念ながら最後は打球がわずかにポールの右を通過したが、この体で、甲子園でこの打球……。
体ではなく、フォームで飛ばせる西川の真骨頂に触れると、頭の中にイチロー(マーリンズ)が重なってきた。プロ1年目、やはり色白で華奢な左打席から東京ドーム中段へ打ち込んだフレッシュオールスターゲームで受けたあの衝撃を思い出したのだ。さらに、この試合の西川はピッチャー左への絶妙なバントヒットに、左右の投手それぞれから左中間へ目の覚めるような長打も2本。試合には敗れたが、その魅力を余すところなく見せつけた一戦で、僕は向こう2年間の西川詣を決めたのだった。しかし……。
以降も3度、甲子園の土を踏んだ西川だったが、この一戦を上回る輝きを見せることはなかった。
通算本塁打もわずか13本。あの“一発”を見ていなければ、僕もあれほど西川を追い続けていなかっただろう。多くのスカウトたちの評価も2年後半から3年の夏にかけは間違いなく停滞、もしくは下がっていた。その頃の西川に会うと、いつも首を捻っていた。調子を聞くと返ってくるのは、ほぼ決まっていて「全然です」。あるいは「悪くはないんですけど」か、「この間までは良かったんですけど」。だいたいこの3つだった。
ドラフト直前には、スカウトたちの空気から、良くて3位、この感じなら4位あたりも……と僕も考えるようになっていた。ところが当日、日本ハムからの2位指名。これには正直驚いた。あとで当時の日本ハムの関西担当スカウトと話をすると、その人も「僕が誰よりビックリしました。ウチはあんなに高い評価をしていたのか、って」と笑っていた。GMと編成トップの2人で直前に指名選手を決める独自の方式を取る日本ハムならではの結果でもあったが、僕は密かに日本ハムの“トップ“は最後にあの一発を信じたのではないか、と思っているが、どうだろう。
ちなみにドラフト直前、本人に希望球団を聞くと「どこでもいいです」のあと、こう言った。
「でも、北海道だけはダメですね」
今となっては出来すぎに思える一言だが、理由を聞くと「寒いのが絶対ダメなんです」。脂肪をつけるのが難しい細身の体には確かに寒さが応えるのだろうと思ったが、その日本ハムからの指名だったというわけだ。
それから5年。智辯和歌山の選手はプロで活躍しない、という一部で囁かれてきた“ジンクス”も見事に消し去る、今の活躍である。