阪急電鉄の創設者として知られる小林一三。野球ファンには、阪急ブレーブスのオーナーとしての功績が有名だが、実は高校野球の発展にも一役買っていた。
小林は阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道を、沿線の地域開発とセットにすることで事業化に成功。1913年には野球場(豊中球場)を含む複合スポーツ施設の豊中グラウンドも建設した。
この豊中グラウンドとは、全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)の第1回、第2回大会が開催された歴史のある場所。2018年に100回大会を迎える夏の甲子園の「発祥の地」でもある球場を設立したのである。
また、阪急ブレーブスを設立する前に宝塚運動協会という野球チームを1924年から1929年にわたり運営していた。
この当時の記録によると小林は「関西、関東の電鉄会社がグラウンドを持ち、リーグ戦を行う」という電鉄各社によるリーグ戦構想を抱いていたとされている。
宝塚運動協会が生まれたのは巨人の前身である大日本東京野球倶楽部が設立された1934年よりも10年前のこと。少し時代が早すぎた、あるいは先見の明がありすぎたのかもしれない。
1936年には、阪急ブレーブスの前身に当たる「大阪阪急野球協会」を設立し、日本職業野球連盟に加入。いわゆる、プロ野球に参加した。
これはライバルである阪神電鉄が球団を持ったことに影響されたとも言われている。また、このとき、小林は自前で球場を所有することを計画していた。球団と球場が一体となって経営を行うという2017年の現在では当たり前の発想を約80年前に考えていたのだ。
この発想には鉄道会社の運営とセットにして周辺の地域開発に力を注ぎ、阪急百貨店、宝塚歌劇団といったコンテンツを生み出した商才が生かされている。経営者ならではの視点で、時代に先駆けるプロ野球団のあり方を考えていたことは興味深い。
「乗客は電車が創造する」という名言を残しているが、それもうなずけるエピソードだ。
生前の小林は「私が死んでもタカラヅカとブレーブスは売るな」という言葉を残していたと言われるが、死後31年が経った1988年オフに阪急はブレーブスをオリックスに身売り……。
「オリックス・ブレーブス」とかろうじて「ブレーブス」の名前は残ったものの別球団に変わってしまったのだ。そして、1991年からは「オリックス・ブルーウェーブ」に。ブレーブスの名前はプロ野球の表舞台から消えることとなった。
しかし2006年、阪急電鉄は阪神電鉄と経営統合。阪神電鉄を子会社とする形で、阪急阪神ホールディングスとなり、阪神タイガースも傘下に加えた。並々ならぬライバル心を燃やしていた阪神電鉄が傘下に加わったことで、小林が愛してやまなかった野球チームが、形だけとはいえ再び阪急グループに戻ってきたというのは皮肉なものだ。
この顛末を小林は天国からどのように見ているのだろうか。
文=勝田 聡(かつたさとし)