電撃引退劇。その元祖的存在といえば「エモヤン」こと江本孟紀だろう。
江本は1970年にドラフト外で東映に入団。2年目の1972年に南海(現・ソフトバンク)に移籍するとエースとして活躍。その後、移籍した阪神でも主戦としてチームを支えた名投手だ。
また、ハンサムな容姿から歯に衣着せぬ物言いをする毒舌キャラクターでも人気を博した。しかし、その毒舌が電撃引退の原因となってしまう……。
事件は、1981年8月26日のヤクルト戦で起きた。先発の江本は好投を続けるも、8回に同点に追いつかれるとベンチから降板を命じられる。ここで江本が激昂。グラブを叩きつけ、ベンチ裏へ引き上げる際に新聞記者を前にうっぷんを晴らした。
「ベンチがアホやから野球がでけへん」
ピンチの場面で中西太監督が背中を向けてベンチ裏へと消えてしまったことが、どうしても許せなかったという。
翌朝、この発言は新聞に大きく掲載され、ひと騒動に。首脳陣批判とも取れる発言を重く見た球団は、江本に10日間の謹慎を言い渡す。
この処置に対して江本は、「謹慎10日は辞めろというのと同じです。球団にも迷惑をかけたし、責任をとって辞めます」と、その場で引退を表明してしまった。
引退時の年齢は34歳。このシーズンは8月下旬までに、12試合に先発していた。全盛期は過ぎたとはいえ、ローテーションを守る力を保っていただけに引退を惜しむ声は多かった。
引退後の江本は解説者兼タレントに転身。参議院議員などを経て現在は、四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグスの総監督を務めながら、解説者としても活躍している。
今も毒舌は健在で、その鋭い舌鋒で、度々実況アナウンサーの言葉を詰まらせている。
1980年代を代表する名投手・江川卓(元巨人)も突然、野球界から引退した1人だ。
「怪物」と呼ばれた作新学院時代、2度の入団拒否、物議を呼んだ「空白の1日事件」など、プロ入り前から注目を浴び続けてきた江川。それほどまでに社会を騒がせてきた右腕の実力は、やはり並みではなかった。
プロ3年目の1981年には、史上6人目の投手五冠を達成(最多勝、再優勝防御率、最多奪三振、最高勝率、最多完封)。名実ともに球史に名を残す大投手となった。
しかし、引退の日は唐突に訪れた。1986年9月22日の広島戦で、江川は小早川毅彦に2打席連続本塁打を浴び敗戦投手となる。すると、この試合をきっかけに引退を表明してしまったのだ。
このシーズンも25試合に先発し、13勝を挙げるなどローテーションの軸として活躍していた。しかもまだ31歳。引退するには早すぎる年齢だっただけに、江川の電撃引退劇は大きな衝撃を与えた。
引退の理由には諸説あるが、真相は江川本人が知るのみだ。
最後に紹介するのは、セ・リーグ記録の5年連続盗塁王に輝き、通算381盗塁を記録した「虎のスピードスター」赤星憲広だ。
200年のドラフト4位で阪神に入団した赤星。身長170センチ、体重66キロと小柄ながら、驚異的なスピードを武器に1年目からレギュラーに定着。打撃や守備でもダイナミックなプレーを連発し、多くのファンを魅了した。
しかし、小さな体で戦っていくのは過剰なエネルギーを必要とする。体を張ったプレーは、赤星の選手寿命を徐々に削っていった。
腰や首のヘルニアなど、体のいたるところが悲鳴をあげるなかでプレーを続けていた赤星だったが、2009年9月12日に悲劇が訪れる。甲子園球場で行われた横浜戦、右中間への飛球にダイビングキャッチを試みた赤星の体は、ついに壊れてしまった……。
頸椎椎間板ヘルニアが悪化すると同時に、中心性脊髄損傷という大ケガを負ってしまったのだ。
診断した医師は「現役続行は厳しい」との見解を出した。そして「今度、同じケガを負った場合は、半身不随どころか命にも関わる」とも告げた。
それでも赤星は現役続行を望んだ。しかし球団側は、生命に関わるケガを抱える選手と契約はできないと主張。何度か話し合いの席を設けるも、お互いの意見が交わることはなく、球団の意思が変わらないことを悟った赤星は引退を決意。2009年12月2日、球団に引退を申し入れたのだった。
当時33歳。この年も31盗塁を決めていただけに「まだやれる!」という気持ちは強く、無念の引退となった。
「完全燃焼した気持ちはない」
引退会見で赤星はこう悔しさを滲ませた。
稀代のスピードスターは9年間という短いプロ野球人生を全力で駆け抜け、去っていった。
今回挙げた選手達のほかにも、高橋由伸巨人監督や、2ケタ勝利を挙げながら引退した黒田博樹(広島)なども、突然の引退で幕をひいた選手として記憶に新しい。
文=井上智博(いのうえ・ともひろ)