今年の夏、高校野球の球史に名を残す1人の名将が勇退した。
横浜高校野球部 渡辺元智監督71歳。
春夏合わせ、甲子園出場回数27回、通算51勝、優勝回数5回という輝かしい記録を残した名将だ。
渡辺監督に学び、プロ野球に進んだ教え子は50名を超える。
今回、渡辺監督の教え子の1人で、後に横浜大洋ホエールズ(現DeNA)に進んだ、西山茂氏に当時の話を伺う機会を得た。
渡辺監督がまだ30歳に満たない血気盛んな監督時代。選手たちはどのように思い、日々野球に取り組み、悲願の甲子園初優勝を成し遂げたのか。
「飯を口にほおばったら行くぞ!」
これが合図だった!
1971年12月某日、横浜高校1年生部員が巻き起こした前代未聞の脱走劇である。
「脱走は誰かが言い出したかというより、みんなの思いがそうだった」と、西山氏は当時を振り返る。
あらかじめ伝えていなかった1年生マネージャー以外の1年生部員全員が寮の食堂から逃走。集合場所は品川駅。4グループに分かれて駅に向かう計画的なものであった。脱走後は高校を辞め、全員が山梨で働くことまで決意していたという。
しかし、品川駅で保護者に捕まり、全員強制的に寮に連れ戻された。渡辺監督からは「遅いからもう寝ろ!」とだけ言われ、脱走劇はあっけなく終焉した。
その後、数日は平穏に過ぎ、気づけば元のスパルタ指導に戻っていた。
脱走劇を巻き起こした1年生部員は、横浜高校が野球の強豪校を作る目的で3カ年計画を立て、横浜市、横須賀市を中心に広く関東圏からも中学の優秀な選手をスカウトした者たちであった。
渡辺監督からすれば、この1年生部員が中心になり、2年後の夏には「甲子園で全国制覇する」という思いが強く、スパルタ指導が続いていた矢先のことであった。
西山氏は言う、「150〜160人が入部し、3年で残ったのは18人。渡辺監督に見てもらえないのに加え、鉄拳制裁でほとんどの部員が辞めていった」と。
脱走を働いた選手たちは、2年生になった秋の関東大会決勝で江川卓(元巨人)擁する作新学院に完敗して準優勝に終わるも、翌年のセンバツでは、初出場初優勝を成し遂げることになる。
脱走劇からわずか1年3カ月後の快挙であった。
当時のことを渡辺監督は「このときはもともと能力の高い選手たちが、たまたま厳しさに耐えうる精神力と忍耐力を持っていただけで、私にとっては非常にラッキーだった。根性野球が花開いたと有頂天になっていた」(月刊『MOKU』より引用)
ミスをすれば殴られ、連帯責任でも殴られた。西山氏は、「制裁はあの時代のやり方だし、それが当たり前だった。でも今は違うし、自分もそんなやり方は違うと思う」と語る。
ただ西山氏は「勝負の世界に生きているのだから」とも付け加えた。
勝つための手段。それがスパルタであり鉄拳であった。後に渡辺監督はスパルタ指導の間違いを悟っていく。
(後編につづく)
語り手=西山茂氏
横浜高校のセンバツ初出場初優勝時のメンバー。三菱自動車川崎を経て、1978年に横浜大洋ホエールズに入団。外野手として活躍。1983年に現役を引退。横浜金沢リトルシニア時代(中学)の秋山翔吾(西武)にコーチとしてバッティング指導した経験もある。
文=まろ麻呂
企業コンサルタントに携わった経験を活かし、子供のころから愛してやまない野球を、鋭い視点と深い洞察力で見つめる。「野球をよりわかりやすく、より面白く観るには!」をモットーに、日々書き綴っている。