97歳でマウンドに上がった背番号18(前編)
1998年、当時88歳の苅田久徳さんに始まって、僕はこれまでに70代、80代の野球人に数多く取材してきました。「伝説のプロ野球選手に会うということ」は、ご高齢の方からダイレクトに貴重なお話を聞くこと、とも言い換えられます。
そのなかで、最高齢は、97歳の前川八郎さん。巨人軍草創期のメンバーで、投手のほかに内野手、外野手を務めた方です。当時のプロ野球では、投手と野手を兼ねる選手は珍しくなかったといいます。
残念ながら、前川さんは2010年3月に逝去されましたが、僕は前の年の6月にお会いする機会に恵まれました。
きっかけは、巨人軍創立75周年を記念したイベントです。
そのイベントのメインが、1936年の第二次アメリカ遠征時に着用したユニフォームの復刻。さらには巨人ナインが復刻ユニフォームを身につけた試合、OBの方による始球式が行われることになっていて、そのマウンドに97歳の前川さんが立つ、と新聞記事で知ったのでした。記事で年齢を見たときには、驚いて思わず声を上げていました。
100歳近いご長寿、始球式でボールを投げるほどにお元気。ならば、インタビューにも応じてもらえるはず。
−−今から70年以上前の野球界、巨人というチームはどうだったのか、当事者の方から直に聞ける機会など滅多にない。何より、前川さんは社会人チームの東京鉄道局時代に沢村栄治と対戦したことがあり、同僚となった巨人では熱い友情で結ばれていたそうだから、われわれにとっては[伝説の名投手]の沢村の実像に迫れるかもしれない−−。一気にそこまで考えたら、もう会いに行かずにいられなくなりました。
前川八郎さんと息子のひろ志さん。
取材はそれから3週間後に実現。編集のM君とともに、埼玉県にある高齢者介護施設に向かいました。前川さんはその施設で生活されていて、耳が少し聞こえにくいということで、息子のひろ志さんも同席。ひろ志さんは年齢的に還暦をすぎておられ、昔の野球にも詳しく、こちらの質問はすべて、聞き取りやすい言葉に変換されて前川さんに伝えられました。
たとえば、こんな感じです。
「前川さんは東京鉄道局のとき、沢村栄治さんと投げ合っておられますよね?」と僕が言ったあとに、ひろ志さんが、
「東鉄のときに巨人と試合をして、沢村さんと投げ合ったんでしょ?」と、半ば通訳するように伝えてくれる。
前川さんの返答はこうでした。
「あぁ、それはあの、最初にアメリカに行って帰ってきたあと、静岡でやったんですね。そのときはまだ、僕ら、もうひとつね、ピンとこなかったんですよ。ただ普通の、いわゆる対外試合ぐらいに考えて。ところが案外、いい試合をして、うまく行くと勝てておったと。そういうところから、みんなが『なんだい、巨人って大したことない』と」
巨人って大したことない−−。そう言ったときの前川さんは、微かに笑っていました。僕はその微笑を見てようやく、恐縮しきっていた気持ちが解放されたように思います。
というのも、ひろ志さんに連れられてきた前川さんは、僕らと対面するなり「前川でございます」とおっしゃって、深々と頭を下げられた。言葉遣いも含めて、これほど上品で丁寧な挨拶をされる野球人に僕は会ったことがなく、何か身が引き締まる思いがしたのみならず、極度に恐縮して緊張して、自然と直立不動になっていたのです。同行したM君も傍らで固まっていました。前川さんが着席されるまで、僕らは姿勢を崩さずにいました。
思えば、それほどの恐縮および緊張状態を解きほぐした前川さんの言葉は、日本プロ野球の黎明期を象徴しています。なにしろ、前川さんが社会人でプレーしていた1935年当時、プロ球団は巨人ひとつしかなかった。ゆえに社会人相手に試合をするしかなく、「巨人って大したことない」は「プロというけど大したことない」と言い換えられるわけです。
実際、東京鉄道局の前川さんが巨人に入団した経緯自体が象徴的です。1935年の巨人は国内各地の社会人チームと試合をして、36勝3敗1分けと強さを見せたのですが、3敗のうち2敗を喫した相手が東京鉄道局でした。
つまり、プロである自軍に優るアマチームから、主力選手の前川さんを引き抜いた。しかも当時の東京鉄道局監督、
藤本定義まで招聘しているのです。
巨人の母体は、1934年の日米野球、「
ベーブ・ルース一行」と呼ばれた大リーグ選抜チームと対戦するために結成された全日本軍です。それだけに強さはあったとしても、さらなるチーム強化が必要と考えたのでしょう。
そうして巨人に入団した前川さんですが、前年の東京鉄道局対巨人の試合では、沢村と対戦して貴重なタイムリーヒットを打っています。それも“ドロップ”と呼ばれる、鋭く落ちる決め球をとらえた。そのときのことを、前川さんはこう振り返ってくれました。
「沢村のドロップはね、目の高さから膝へズバッと落ちる。いっぺん、パッと止まるような感じでパンと落ちる。だから、うんと引きつけて、止まったところを狙ったら、うまくそれが当たりましてね。ショートの頭を越して、センター横のヒットになった」
写真右が沢村栄治、左が前川八郎さん。
巨人でチームメイトになったあと、沢村はその試合のことで前川さんに話をしたそうです。「ドロップを打たれて残念だった」と。それで前川さんが「まだ憶えとんかい」と返すと、澤村はこう言ったといいます。
「あれは一生、忘れない。今の選手で俺のあのドロップを打つ者はいないはずだ」
前川さんを通しての言葉とはいえ、目の前で[伝説の名投手]の声を聞いたような気がして、僕は急にぞくぞくしました。(次回につづく)
写真提供/前川八郎 撮影/持木秀仁
(禁無断転載)
文=高橋安幸(たかはし・やすゆき)/1965(昭和40)年生まれ、新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。雑誌編集者を経て、野球をメインに仕事するフリーライター。98年より昭和時代の名選手取材を続け、50名近い偉人たちに面会、記事を執筆してきた。10月5日発売の『野球太郎』では、板東英二氏にインタビュー。11月下旬には、増補改訂版『伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』が刊行される(廣済堂文庫)。ツイッターで取材後記などを発信中。アカウント
@yasuyuki_taka
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