アマチュア野球の王道を歩むもプロ野球の経験がない男が、サラリーマンを経て55歳で北海道日本ハムファイターズのスカウトへ。そして、還暦を迎えた今季から2軍総合コーチに就任した。原田豊氏はいかにして“プロ野球経験のないコーチ”へとたどり着いたのか。「縁」「野球への情熱」「会社員としてのたゆまぬ努力」が実を結んだ原田氏の野球人生ドラマに、九州のアマチュア野球を中心に追うライターが迫る。
「あの原田(豊スカウト)さんが、ファーム総合コーチに?!」。Yahoo!ニュースに、驚き半分。バックネット裏で、暑さ寒さをともにした元戦友の「出世」を喜ぶ気持ち半分だった。
すぐに、LINEを受け取った。「(2軍球場のある)千葉の鎌ヶ谷に単身赴任です」。喜びが伝わってくる。
3年前の春。福岡の小郡市野球場が、原田との出会いの場であった。県下ナンバーワン遊撃手・森上涼太(当時西日本短大付高、現西部ガス)を追いかけていた私は、試合後に西村慎太郎監督を取材した。少し離れて、会話の終わりを待っていたのが、原田だった。森上をマークするスカウトは少なく、センバツ開催中でもあり、背広姿の男性を「大企業の管理職」と錯覚した。
その後、スタンドで、どちらからともなく挨拶を交わすようになった。
四方山話にて、プロ野球経験がないとうかがった際、「あの木庭教さん」を思い出した。『スカウト』(後藤正治・著、講談社、1998年)の主人公にして、故・衣笠祥雄らを見出した広島東洋カープの伝説のスカウトに、原田を重ね合わせた。木庭氏は72歳で41年間の「スカウト人生」を終えた。
一方、原田は、アマチュア野球出身の経歴のみで、スカウトからコーチ就任というNPB史上初と思われるキャリアを還暦にして踏み出した。
野球界のプロ・アマの間には、高い壁が立ちはだかっているだけに、原田の野球人生を追うことは、「プロへの憧れ」を抱く野球人にとって、「夢の扉」へのヒントとなるのではないだろうか。
私は、2019年の「野球初夢」を見るべく、徳山駅に向かった。
山口・徳山駅到着。徳山駅の発車メロディーは、徳山町(現周南市)出身のまど・みちおが作詞した『一年生になったら』。原田もこの歌と同じような気持ちだろうかと思いつつ、待ち合わせのカフェにて、高校受験の話からインタビューがはじまった。
「昭和47(1972)年に柳井が選手権で準優勝をしてね」
太華中2年の夏。原田少年が、柳井高の受験を決意するのに十分すぎる「事件」だった。
「事件」というのは、柳井高よりも幾分か成績レベルが上の進学校・徳山高の学区に住んでおり、本来なら、同校受験が一般的だからだ。
しかし、学区外受験の特例である学業成績「5%枠」のリスクを負い、「野球への強い想い」「甲子園出場の夢」を持ってチャレンジ。昭和47年の準優勝監督・岸田成弘(しげひろ)の「勉強しないとダメだよ」の激励も後押しとなり、猛勉強の末、合格を果たした。「野球では、自分よりうまい奴なんかいないだろうという自信過剰」の性格も幸いした。
柳井高卒業後、東海大、協和発酵とアマチュア球界のエリートコースを歩むが、「自信過剰」を打ち砕いた2人の選手との出会いが、スカウトとしての「原田スタンダード」を確立させた。
その2人とは、「東海大時代の同級生・原辰徳(現巨人監督)と協和発酵の津田恒実(故人、元広島)」だ。
「そんじょそこらの成績じゃ納得しない」
「ゴールがすげぇ高い」
圧倒的な向上心に触れた。
天賦の才能を持った原は、プライドも高い。そんな原は、打てなかった日は、悔しさを翌日に持ち込まないために、人知れずしっかりとバットを振った。一方の津田は、社会人1、2年目は故障のためのリハビリとトレーニングに費やした。3年目は投げられる喜びを爆発させると同時に、シャドーピッチングも黙々とこなした。
タイプの違う2人だが、共通していえるのは、人前での努力はせずに、「隠れた努力」をしていたことだ。
残念ながら、「原田スタンダード」たるべき選手とは、5年間のスカウト時代に、出会えなかった。
スカウトを終えた今、その本質を「永年しないとわからない。(獲った選手の)3〜5年後を見ないとわからない」と実感している。
スカウト1年目で獲得した清水優心(九州国際大付高→北海道日本ハムファイターズ)には及第点を与えられる。高校入学直後の4月21日。春季九州大会初戦、伊万里農林高(佐賀)戦で三塁強襲安打にて鮮烈デビューを飾った清水は、その名を九州担当スカウトに知らしめたが、原田は柳井高監督時代から、同校の目と鼻の先にある周防大島出身の清水を追いかけており、「一日の長」があった。
ただ、4年計画で獲得し、ブレイクの兆しがある清水をもってしても、「スカウトとして成功」という観点においては明確な答えを出せず、忸怩たる思いもある。スカウト活動を通じての「会社貢献」が、サラリーマンを経験している原田にとっての一番の肝であった。
営業畑の管理職から関連会社の役員まで登りつめた「サラリーマンの猛者」が、母校再建のためにアマチュア球界復帰後、どのような経緯で、スカウト転身を可能にしたのかを聞いてみた。
54歳、柳井高監督へ。
かつて強豪だった母校は衰退しており、残念ながら、1年で監督を辞した。その経験で生きたのは、生徒気質に加えて、その親のこともよく注意して見ることだった。「子の鏡は親」とする一方で、「(親はどうであれ)子には罪はない」との考えも併せ持つバランス感覚が、スカウト稼業での考え方の小さな一端を担った。
55歳、再就職活動を始める。
一般企業にポストを確保した上で、プロ野球界入りへの思いも温めていた。その折に、相談相手である栄文夫(東海大での1年先輩。岩倉高が1984年のセンバツで優勝したときのコーチ。2004年よりファイターズの寮長)に、「お前、(野球のことなら)何でもできるだろう」とうながされ、ファイターズに履歴書を送付した。諦めかけていたタイミングで、吉村浩GMから連絡が入る。面接へと話は進み、採用に至った。
「ご縁があった」。栄や吉村への恩義を繰り返す一方で、地元に根差した地の利――情報網――を生かすことなどで、スカウト職に関しては、アマチュア野球から転出可能ではと、その考えを明かしてくれた。
「いいものはいい」。この点に関しては、アマ目線もプロ目線も関係ないはず。ベテランスカウトになると、選手への見切りが早く、「しつこさがなくなる」のではと目利き故の「諸刃の剣」を感じていたという。「プロ経験がないスカウト」のレッテルを気にし、物おじしそうだが、原田は違った。
野球へのほとばしる「熱意、情熱」。そして、「(採用可否を悩む前に行動の)ダメ元の度胸」が、原田をスカウトたらしめた。
さらに、今回のファーム総合コーチへのステップアップ。スカウト転身以上に、興味深いが、「降って湧いた話」だったという。
伊藤剛ファーム総合コーチ兼投手コーチの配置転換による抜擢で、その職務分掌は、40歳台の各選任コーチが、選手育成プログラムに沿って指導、教育、育成しているかの管理である。「サラリーマンの猛者」の天職だといえる。
球場で、眼光鋭く選手を追う。現場を離れると、気さくな冗談も交わす。落ち着いたトーンの原田は、インタビュー中も、私が知っている原田そのものであった。
ところが、インタビューも終わりにさしかかったときの「どうして、(ファーム総合コーチに)抜擢されたのか」の問い対しては、一気に熱を帯びた。
「この年齢で挑戦したい気持ちの後押しとなったのは、(スカウトの)5年間、真面目に仕事をしてきたから。でも、真面目にするのは誰にでもできる。レポートのコメントは、具体的で面白い内容を目指す。そのためには語彙力が必要。ならば、本を読む、勉強をする」
サラリーマン時代に培われた発想だ。
「私はずうずうしいから、『常に必要とされる人間』でありたいとの思いから、努力を重ねてきて、部下にも『自分の市場価値を上げろ』といってきた」
真摯な姿勢が、プロのユニフォームに袖を通したい「現場願望」へのアピールとなったのだろう。
ファーム総合コーチ・原田豊は、「縁」「野球への情熱、熱意」「会社員としてのたゆまぬ努力」の産物である。
非常にレアなケースだと感心していた私は、ふとその考えを止めた。
「縁」「野球への情熱、熱意」「会社員としてのたゆまぬ努力」を持ち合わせるアマチュア野球界の人材は大多数が当てはまるのではないか。ならば、「第二、第三の原田」も期待できるはずだ。この結論こそ、私が見たかった「野球初夢」だった。
別れ際に、じわりと握手を交わした。
原田は、颯爽と新春の寒空へ消えていった。
大きな背中は、「一年生になったら、何に挑戦しようかな」の希望ではちきれていた。
(文中敬称略)
取材・文=濱中隆志(はまなか・たかし)