高校野球100年の夏の甲子園大会。ご存じの通り、神奈川県代表の東海大相模が45年ぶり2度目の全国制覇で幕を閉じた。
今回は改めて、東海大相模高校野球部について振り返ってみたい。
1963年、東海大学の6番目の付属校として創立した東海大相模高校。野球部は学校創立と同時に創部された。
1966年に福岡県の三池工を全国優勝に導いた原貢監督を招聘して、45年前の1970年夏にはPL学園を10対6の打撃戦で下し、初優勝を果たす。
原貢監督とは、現在の巨人軍・原辰徳監督の父親にあたり、巨人のエース・菅野智之の母方の祖父でもある。その後、原貢監督は東海大学野球部の監督も務め、東海大相模高校を率いる門馬敬治監督にとっては、自身の大学時代の野球部監督で、マネージャーやコーチとしても師事した間柄だ。
1974年夏には、東海大相模高校の「親子鷹」が高校球界の話題をさらった。原貢監督の息子でもある原辰徳が、1年生ながら5番サードで活躍。チームは甲子園ベスト8に進出した。
以降、4度も甲子園に出場し、1975年には準優勝を果たす。縦縞のユニフォームは注目を集め、原辰徳の爽やかなルックスと勝負強い打撃は、瞬く間に全国の高校野球ファンに知れ渡った。
当時を振り返ると、後の早稲田実業の1年生エース・荒木大輔の大ちゃんフィーバーや、ハンカチ王子・斎藤佑樹らの人気を上回るものであった。
しかし、1977年夏を最後に、東海大相模高校はしばらく低迷期に突入。なかなか甲子園に顔を出さなくなる。
その危機を救ったのが、1975年の準優勝投手・村中秀人監督だ。母校の監督に就任すると、1992年春には25年ぶりにセンバツ出場して準優勝を果たした。ちなみに村中監督は今夏、山梨県代表の東海大甲府高校を率いて、甲子園出場を果たしている。
続いて門馬監督が就任した翌年の2000年春には、決勝で智弁和歌山を4対2で破り、センバツ初優勝を達成。2011年春には大会記録となる74安打を放ち、超攻撃的な「アグレッシブ・ベースボール」で他校を圧倒。2度目のセンバツ優勝を成し遂げたのだった。
前述した45年前の1970年の夏、東海大相模高校が甲子園初優勝を飾った日付は奇しくも8月20日で、今年優勝した日と同じ日付。またスコアも同じ10対6であり、「高校野球100年」節目の大会は、最後の最後に、印象に残る歴史を刻んで閉幕した。