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「あなたが大会を中止させたら、日本人に一生恨まれますわよ」〜甲子園九十年物語〈1936-1947〉

 前回(1924年〜1935年)に引き続き、1936年〜1947年の12年間を、12人の偉人たちを中心にその足跡を振り返ってみたい。


◎12人の偉人で振り返る
〜甲子園九十年物語〈1936−1947〉




<嗚呼、大阪タイガース>

 1935(昭和10)年末に誕生した大阪タイガース。その3カ月後の1936(昭和11)年3月25日には、誰もが知るあの有名な応援歌が早くも誕生した。佐藤惣之助作詞、古関裕而作曲による「六甲おろし」だ。そして、その1カ月後の4月19日にはセネタースと金鯱を迎えて「大阪タイガース球団結成記念試合」が開催され、それぞれ4−1、5−3で撃破。門出を見事に勝利で飾った。

 巨人と大阪タイガースに続き、この年までに阪急、名古屋、金鯱、セネタース、大東京と球団が増えて7球団でスタートした日本のプロ野球。1936(昭和11)年4月29日からは「第一回日本職業リーグ戦」が甲子園球場で開催され、米国遠征中の巨人をのぞく6球団が参加。第一試合は名古屋vs大東京の間で行われた。これが日本プロ野球史における最初の公式戦である。

 創設時の大阪タイガースを支えたのは藤村富美男のほか、初代主将の松木謙治郎(明治大)、若林忠志(法政大)、景浦將(立教大)など、大学野球のスター選手たちだった。

<戦前のスター球児たち>

 大阪タイガースが産声をあげても、この時代の主役はまだまだ甲子園球児たちだった。

 1937(昭和12)年夏の決勝戦を戦ったのは、野口二郎を擁する中京商と川上哲治を擁する熊本工。この試合を中京商が制し、1931年〜1933年にかけて成し遂げた三連覇以来の全国制覇となった。野口は翌春のセンバツにも主戦投手として出場し、史上初の全4試合完封勝利の偉業での夏・春連覇を達成した。

 また、戦前の中等野球で大投手といえばもう1人、海草中の嶋清一を外すわけにはいかない。1939(昭和14)年の夏の甲子園では、史上初の5試合連続完封勝利で海草中が初優勝。しかも、準決勝と決勝戦は2試合連続でノーヒットノーランを達成するというおまけ付きだった。

 1941(昭和16)年春のセンバツでは球史に残る名試合が生まれた。エース・別所毅彦、4番・青田昇を擁した滝川中と岐阜商が対戦した準々決勝。滝川中の9回の攻撃時、本塁クロスプレーの際に別所が左腕を骨折してしまった。しかし、それ以降も、延長12回まで、別所は折れた左腕をダラリと下げたまま岐阜商をゼロに抑えた。しかし、遂に別所も限界を超えて、降板。代わった投手から岐阜商が14回裏に1点をもぎ取って死闘を制した。翌日の新聞記事には「泣くな別所。センバツの花」の名文句が踊った。

<野球以外の催し物>

 春・夏の学生野球とプロ野球以外にも、甲子園ではさまざまな催し物が開催された。

 1937(昭和12)年に三塁スタンド下に飛び込みと競泳ができる大プールが完成。夜間照明も備えた大プールでは日本選手権も開催された。

 1938(昭和13)年と1939(昭和14)年に2回開催されたのが全日本スキージャンプ大会。左中間スタンドに高さ40メートルのジャンプ台が設置され、信州や兵庫県城崎郡から列車で雪を運んで開催にこぎつけた。

 1939(昭和14)年8月には二塁ベース後方に大舞台を設置し、野外歌舞伎を開催。グラウンド芝生上に座布団を敷いた特別席も設けられ、5万人以上の観衆がつめかけた。また同年11月には東京六大学リーグが始まって以来、初めて神宮球場以外で早慶戦が開催。このようにして、甲子園では毎年さまざまなイベントが開催され、賑わいが途切れることはなかった。しかし、そんな人気スポット・甲子園にも、1941(昭和16)年になると戦争の暗い影が襲うようになる。

<戦争と甲子園>

 各地で地方大会は行われた1941(昭和16)年7月中旬、文部省はスポーツの全国大会の全面禁止措置を通達。1915(大正4)年以来、毎年開催されていた全国中等学校野球大会は第27回大会を直前に控えて中止となった。

 1943(昭和18)年には甲子園のシンボルのひとつだった鉄傘が軍事供出され、1944(昭和19)年にはプロ野球の公式戦も中止に。以降、甲子園球場は外野グラウンドが軍用トラックの駐車場に、内野グラウンドは芋畑に姿を変えてしまう。そして1945(昭和20)年8月6日、遂に甲子園球場も空爆で炎上。保管していた貯蔵油に火がつき、球場は3日間も燃え続けたという。西アルプススタンドを支えていた鉄骨アーチは飴の棒のように曲がり、球場は焼け崩れた黒塊と化した。

 さらにポツダム宣言から1カ月以上過ぎた1945年秋、甲子園球場はアメリカ軍によって接収。常時1500人近い米軍兵士たちの駐屯基地となってしまう。しかし、人々の野球熱は衰えることはなかった。戦争から丸1年たった1946(昭和21)年8月15日、奇跡的に被害の少なかった西宮球場で第28回大会が再開された。

<戦後復興と甲子園>

 夏の大会の復活を受け、関係者の間では翌1947(昭和22)年からの甲子園球場でのセンバツを開催することが目標となった。主催者である大阪・毎日新聞社は阪神電鉄の協力を得ながらGHQに働きかけ、一時は大会復活が認められたが、文部省の正式な許可を先に受けていなかったことやGHQ側の意向もあり、既に出場校も決まっていた1947年3月に文部省から大会中止の通達が届いてしまう。

 この窮地を救ったのが、のちに高野連会長も務めた「高校野球の父」こと佐伯達夫と、GHQの通訳を担当していた三宅悦子だった。2人の奮闘と機転によって1947(昭和22)年3月30日、センバツが復活。崩壊の恐れがあったためにアルプススタンドの一部は立ち入り禁止だったものの、球場には立錐の余地もない満員の観衆が詰めかけ「学生のベースボールにこんなにも人が集まるのは米国では見られない光景だ」と米軍関係者を驚かせたという。また、同年夏の大会も甲子園で復活。福岡県の小倉中が九州勢として初優勝。真紅の大優勝旗が初めて九州に渡った。

 一方、1946(昭和21)年から再開されていたプロ野球では1947(昭和22)年5月26日の試合から甲子園にラッキーゾーンが新設される。この恩恵があったのか、大阪タイガースは「ダイナマイト打線」が爆発し、戦後初、通算4度目の優勝を達成した。

【pick up!】

佐藤惣之助、古関裕而、松木謙治郎、若林忠志、景浦将、野口二郎、川上哲治、嶋清一、別所毅彦、青田昇、佐伯達夫、三宅悦子

 以上、12名の偉人の中から、さらに掘り下げたい人物を3人紹介したい。

◎Man of the period〈1936-1947〉
佐伯達夫と三宅悦子


 甲子園球場でのセンバツ復活に尽力した2人の名をあわせて覚えておこう。GHQが当初、甲子園でのセンバツ開催に否定的だったのは、「全国大会は1年に1回でいい」、「アメリカには全国大会はなく、学校ごとの対抗試合が望ましい」という理由とともに、「新聞社主催の全国大会なんて米国では聞いたことがない」という理由があったという。

 ここで奔走したのが、のちの高野連会長となる佐伯達夫。全国中等学校野球連盟の設立に奔走し、初代副会長に就任。それまでの「新聞社主催」から「連盟との共催」というシステムを確立した。しかし、それでも首を縦に振らなかったGHQのノーヴィル少佐に対して、「あなたが大会を中止させたら、日本人に一生恨まれますわよ」と発したのが通訳を担当していた三宅悦子だった。この言葉がきっかけとなったのか「とりあえず、今年度は開催しよう」と少佐の態度が軟化。こうして、甲子園に学生野球が復活したのだった。

◎Man of the period〈1936-1947〉
若林忠志


 大阪タイガース黎明期のスター選手たちの中でもひと際大きな存在といえば、打では藤村富美男、そして投では若林忠志だろう。大卒の初任給が60円だったこの時代、中卒の藤村の契約金は800円。初代主将の松木謙治郎が手にした額は2年分の給料4800円と支度金400円。そんな中、若林の契約金は1万円だったという。1リーグ時代を代表する投手としてスタルヒンや野口二郎、沢村栄治らとともに球界を盛り上げ、1942(昭和17)年からは選手兼監督を務める。1944(昭和19)年と1947(昭和22)年にはチームを優勝に導き、どちらの年もMVPを獲得。1947年に達成した「39歳での20勝以上」は未だにプロ野球最年長記録である。


◎Man of the period〈1936-1947〉
嶋清一


 「海草の嶋か、嶋の海草か」といわれるほど圧倒的な力で甲子園を制したのが海草中の投手・嶋清一だ。特に1939(昭和14)年、夏の大会における5試合連続完封勝利と準決勝・決勝での2試合連続ノーヒットノーランは球史において。永遠に語り継ぐべき偉業といえる。センターを守っていた選手が大会中にボールに触った回数はわずかに2回。スピードガンがあれば150キロは出ていたというストレートは語り草だ。

 しかし、明治大在学中の1940(昭和15)年に学徒出陣し、1945(昭和20)年6月の仏印沖海戦で帰らぬ人となった。戦争で命を落とした野球人といえば、沢村栄治をはじめプロ野球選手ばかりがクローズアップされがちだが、嶋のような学生野球の偉人たちの名もまた、永遠に語り継いでいかなければならない。


■ライター・プロフィール
オグマナオト/1977年生まれ、福島県出身。広告会社勤務の後、フリーライターに転身。「エキレビ!」では野球関連本やスポーツ漫画の書評などスポーツネタを中心に執筆中。『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』(新紀元社)では構成を、『漫画・うんちくプロ野球』(メディアファクトリー新書)では監修とコラム執筆を担当している。ツイッター/@oguman1977

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