清原は甲子園の英雄だった。名門・PL学園の1年生4番として1983年夏にデビュー。エース・桑田真澄とともに5回のチャンスをすべて生かし、5季連続の甲子園出場。
1年夏→優勝
2年春→準優勝
2年夏→準優勝
3年春→ベスト4
3年夏→優勝
甲子園通算13本塁打は歴代1位。3年夏の1大会5本塁打も歴代1位。今もなお語り継がれる甲子園の伝説である。
桑田・清原のコンビは「KKコンビ」と名付けられ、大フィーバーを巻き起こした。当時の野球雑誌を並べると、清原、桑田、清原、桑田、桑田、清原――。後にも先にもない大ブームである。
しかし、ドラフトで事件は起こった。清原が入団を熱望していた巨人がなんと早稲田大進学を表明していたチームメート・桑田を強行指名。清原の指名権は西武が獲得し、清原は会見で悔しさと動揺のあまり泣き出してしまうのだった。
悩み抜いた末に西武入団を決めた清原は1年目から大活躍。126試合に出場し、打率.304 31本 78打点という驚異的な数字をマークし、オールスターゲームにも選出され、本塁打をかっ飛ばした。
この31本塁打という数字は高卒新人はおろか、今もなお、新人本塁打記録として燦然と輝いている。打率、打点もまた高卒新人記録だ。日本シリーズでも4番に座り、チームの日本一に貢献。もちろん清原はぶっちぎりで新人王を獲得した。
2年目の1987年には日本シリーズでドラフトで因縁のある巨人と対戦。第6戦、あと1アウトで日本一が決まる状況で、清原はファーストの守備位置で涙を流していた。ベンチに座る巨人・王貞治の姿を見て、胸から止め処もない思いがこみ上げてきたのだ。
少年時代からのあこがれ、裏切られた、勝った――。その清原の涙はプロ野球史上に残る名シーンを生み出した。
21歳で100本塁打、24歳で200本塁打。次々と史上最年少記録を塗り替えた清原は1996年オフ、FA権を行使し、念願の巨人に入団することを決めた。
西武からの残留要請や阪神からのオファーもあったが、最終的には当時の長嶋茂雄監督の熱意に胸を打たれた。
しかし、巨人に入ってからの清原はスランプとケガに悩まされた。移籍1年目の1997年は32本塁打、翌年は23本塁打を放ったものの、打率は2割中盤。過剰な期待に応えるまでの活躍とはいかなかったのだ。
1999年に相次いでケガに見舞われたことから清原は肉体改造を開始。2001年には打率.298 29本塁打 121打点をマーク。翌2002年はケガに苦しみながらも55試合で打率.318 12本塁打 33打点、2003年も114試合で打率.290 26本 68打点の活躍を見せ、復活の兆しもあった。
しかし、2004年に堀内恒夫監督が就任すると清原は干された。過去には「清原がいない方が勝てる」などの放言を繰り出していた渡邊恒雄オーナーもこれに同調し、一気に「清原放出」の機運は高まっていった。
2005年、シーズンオフを待たずして清原に自由契約が告げられた。失意の清原を救ったのは、当時オリックスのシニアアドバイザーを務めていた仰木彬氏だった。
「引退の花道を作るぞ」
その言葉に清原は涙を流した。その直後、仰木氏は肺がんで他界。清原は仰木に感謝を示すべく、オリックス入団を決めた。
移籍1年目の2006年は11本塁打を放った清原だったが、肉体は限界に達していた。翌2007年は左ヒザ手術で1軍出場なし。ついに2008年8月に引退を表明した。
10月の引退試合のチケットは1時間で完売。大入りの観客に見守られながら、清原は最後の4打席をフルスイングで全う。長年、入場曲として使用してきた長渕剛の『とんぼ』の生演奏が京セラドームに響き渡った。
清原のプロ野球での記録を改めて見てみよう。
・通算2122安打(歴代25位)
・通算525本塁打(歴代5位)
・通算1530打点(歴代6位)
・通算4066塁打(歴代11位)
・通算1346四球(歴代4位)
・通算196死球(歴代1位)
・通算1955三振(歴代1位)
・通算サヨナラ安打20本、通算サヨナラ本塁打12本、通算サヨナラ満塁本塁打2本(すべて歴代最多)
・オールスターMVP7回、オールスター通算打点34、オールスター通算塁打96、オールスター通算得点26、オールスター通算三振40(すべて歴代最多)
「無冠の帝王」と呼ばれた清原は打撃三冠タイトルの獲得はなかったが、オールスターや日本シリーズ、サヨナラの場面など、ここぞという場面で活躍する「記憶に残る男」だった。
これだけの成績を残した男がなぜ…。現時点での真相は分からないが、清原の現役時代はクリスタルのように輝いていた。復帰に向けて小さな一歩でよいから踏み出して欲しいと思うファンも少なく無いはずだ。
文=落合初春(おちあい・もとはる)