球場にまつわる物語をアレコレを紹介する連載『知っておきたい球場の話』。今回はかつて存在した関西パ・リーグ球団の本拠地球場の今を紹介したい。
1950年代には阪神以上の人気を誇ったともいわれる南海が本拠地として使用した名球場。関西地区初のナイター設備や客席下にテナントスペースを設けるなど、エポックメイキングな球場だった。
しかし、南海の低迷とともに客足は激減。お客さんが多いと思ったら場内に併設されていた場外馬券場の客だった……など、昭和のパ・リーグを象徴するエピソードも多い。
結局、ホークスは福岡に移転し、1998年に大阪球場は撤去解体。現在は複合商業施設『なんばパークス』になっている。
近鉄が長く実質的な本拠地として使用してきた日生球場。客席数がわずか2万500席で、日本シリーズが開催できないなどの問題もあったが、関西地区では「アマチュア野球の聖地」といわれた名球場だ。
大阪府内の中学準硬式野球もここを聖地にしており、桑田真澄(元巨人ほか)、香川伸行(元南海ほか)らも日生球場を目指した。
照明が薄暗いことも日本シリーズが開催できなかった要因。コウモリがよく飛んでいたといわれ、カメラマン泣かせの球場だったという。
ちなみに1984年に近鉄に在籍したドン・マネーが「ゴキブリやネズミが出る」「汚すぎる」とノイローゼになったのは、この日生球場と藤井寺球場。だが、昭和のパ・リーグ選手にとっては何の問題もなかった。また1996年、最後の公式戦では最下位に沈むダイエーファンが暴徒化し、選手が乗るバスに生卵を投げつけたことでも知られる。
1997年に取り壊され、駐車場やモデルルーム展示場になっていたが、2015年にショッピングモール『もりのみやキューズモールBASE』に姿を変えた。
近鉄の名目上の本拠地。開場当初は甲子園よりも広い敷地だったが、徐々に開発が進むと周囲が住宅街に。そのため、ナイターの開催に激しい反対運動が起き、最終的には鳴り物使用不可になるなど、難しい運営を迫られた。
1984年にナイター設備が完成するが、なかにはガッカリする選手もいたという。夜の球場は真っ暗。アベックたちの愛の巣になっていたからだ。若手が偵察に出され、もし見つければ先輩に報告。みんなで「観戦」するのが、「猛牛戦士あるある」だったという。
昭和パ・リーグの語り部・金村義明氏(元近鉄ほか)いわく、「映画の撮影をすると言うので見に行ったら、刑務所のトイレシーンの撮影だった」。
自転車での来場者が多い庶民派の球場としても知られ、河内の熱を懐かしむOBも多い。
2005年に閉場。現在はモニュメントを残し、学校やマンションになっている。
直線距離で約3キロ。目と鼻の先にある甲子園人気と戦い続けた阪急の本拠地。3万5000人以上の収容力があり、競輪やコンサートも開催されるなど、複合エンターテイメント経営に力を入れていた。
日本初の二層式スタンドを備え、ハイソでモダンが売り。関西パ・リーグでは飛び抜けて上品だったといわれている。
1958年、1963年の夏の甲子園大会では記念大会ということもあって、甲子園球場と併用されたが、「甲子園じゃなきゃ嫌だ」という声が相次ぎ、その後は使用されなかった。
平日は特にガラガラ。父親が束のようなタダ券を持って帰ってきた沿線住民も少なくないという。1991年にオリックスが神戸に移転し、2004年に解体。現在は商業施設『阪急西宮ガーデンズ』になっている。
今のパ・リーグ人気を考えると西宮球場の立地は抜群のポテンシャルがあった。時代に負けた。そんな印象も否めない。
文=落合初春(おちあい・もとはる)