野村克也氏(元南海ほか)の持つ通算3017試合出場のNPB記録を更新した中日・谷繁元信選手兼任監督。伝説と化した1998年の横浜優勝に大きく貢献し、FAで中日へ移籍してからは、落合博満政権下において、「投手王国」を操る最も欠かせない存在だった。しかし、一歩間違えれば全く異なる人生を歩んでいたかもしれない……。
1回目のターニングポイントは中学3年時に訪れた。広島県比婆郡東条町(現庄原市)で生まれ育った谷繁は、地元の名門・広島工業高校への進学を目指す。野球の腕は既に県内でも知れ渡っていただけに、試験は「名前さえ書いていれば大丈夫」と言われたらしい。これは一種の比喩表現で、高得点を目指す勉強をしなくても最低限点数がとれていれば構わない、ということのはず。ところが、結果はまさかの不合格。上記の言葉を真に受けて、真面目に取り組まなかったのが仇となった。
広島工側はさすがに可哀想に思ったのか、傷心の谷繁に助け舟を出した。それが隣県・島根にある江の川(現石見智翠館)への二次募集。ここはなんとか合格した谷繁はメキメキと成長していった。強打の捕手として夏の甲子園にも2度出場を果たし、ドラフト1位で横浜大洋ホエールズへ入団した。
プロ入り後はいきなり背番号1を与えられ、高卒1年目から出場を重ねた谷繁。自慢の強肩とパンチ力を生かした打撃は一定の評価を得ていた。しかし、捕手としての技術はまだまだ未熟で、付けられたあだ名が「パンパース」。これはつまり、おしめが必要な選手を意味する。成人男性にとっては屈辱的な扱いだ。
ここで2度目のターニングポイントを迎える。球団名が横浜ベイスターズに変更された1993年、バッテリーコーチに大矢明彦氏が就任。プロ5年目を迎えた谷繁は、大矢から徹底的に鍛えられた。
その1つが、先を読むトレーニング。球場までの運転中で赤信号に当たったとき、次の信号ではどうすれば早く到着できるか。道を歩いているとき、前を歩く人の身なりや雰囲気から左右どちらに動いていくのか。大矢はこのようなトレーニングを谷繁に課し、インサイドワークに不可欠な洞察力を鍛えた。
その後、監督となった大矢の積極的な登用、そして不断の努力でレギュラーの座を獲得した谷繁。以降の活躍は知っての通りだが、「人に歴史あり」とはよく言ったもの。数々の失敗を経て、「名捕手」への階段を登っていったのだ。
(文=加賀一輝)