全球団に負け越しての最下位に沈んだオリックス。チーム防御率もリーグ最下位の苦境に、即戦力右腕を単独1位指名。高卒1年目から社会人の打者を“駆け引き”でキリキリ舞いさせた男のすごみと課題とは?
社会人のマウンドで大人びた投球を展開する山岡泰輔。名だたるベテランと対しても臆することなく、駆け引きで封じ込める。各チームの顔とも言えるベテランと同じ土俵で戦う姿は、とても21歳になったばかりとは思えない。
早熟そうに見えるが、子どもの頃から野球エリートではなかった。小さい時にはいろんなスポーツに触れた。最初に始めたのはサッカーで、バスケットボールや水泳もやった。父親の秀治さんとよく親子でキャッチボールをしたし、母親の幸枝さんとバドミントンをすることも多かった。
「今思えば、やっていたスポーツがよかったんでしょうね。全部後づけですけど」
中野東小学校ではソフトボール部でピッチャーだった。本格的に野球を始めたのは瀬野川中に入ってから。「ソフトボールで下から投げていたから、最初はどうやって上から投げたらいいかわからなかった」と山岡は笑う。それでも投球フォーム自体は中学時代からほとんど変わっていないという。
高校は瀬戸内を選んだ。広陵や如水館などの甲子園常連校ではなく、瀬戸内に決めた理由を、山岡はこう語る。
「小、中学校と弱いチームでやっていたから、甲子園なんて思ってもいなかった。強いところを倒せたらいいかな、ぐらいの気持ちでした」
当時から負けん気は強かった。
瀬戸内では田村忠義コーチに投球の考え方を教わった。日本鋼管福山の技巧派サイドハンドだった田村コーチは、打者の特徴を見抜く方法を山岡に授けた。
「ネクストでの姿から観察して、一球目の見送り方で何を狙っているのか、同じ球種を続けていいのかを考えます。相手の好きなところから少しボールにすると、手を出して凡打になります。多少のコントロールがないとできない技術かもしれませんけど。中学までは野球の知識がなかったから、高校に入って田村さんの教えを全部取り入れることができました」
中学まではムキになって投げていた。高校での3年間で、冷静に投げることを覚えた。また田村コーチから投球フォームをいじられなかったのもよかったと、山岡は振り返っている。
高3の春になると、山岡は広島県内で名の知れた投手になった。しかし全国的にはまだ有名ではなかった。東京ガスの菊池壮光監督は、山岡が初めて練習に参加した時のことを克明に覚えている。
「山岡がまだ高3の6月ぐらいに、ウチのOBの末定英紀から『広島でちょっと評判の投手がいるから見てほしい』と連絡がありました。その時は左を探していたから、右で170センチちょっとのピッチャーは…と思っていました。
練習に参加した山岡は、ブルペンでベテラン捕手を相手に、一球目から外に構えさせて『外の真っすぐ、いきます』という仕草を見せるんですね。『いい度胸だな』と思っていたら、外にストレートがバシッと決まって。こっちも『すごいじゃないか!』と見る目が変わりました。
唯一心配だったのが体力面。体が薄っぺらいので、連投はどうかなと思っていたら、夏の広島大会であれだけ投げていたから、スタミナはあるとわかりました」
高3夏の広島大会の決勝戦で、山岡は広島新庄の田口麗斗(巨人)と投げ合い、延長15回引き分け。2日後の再試合も1人で投げ抜き、1対0の完封勝利で甲子園行きを決めた。この激闘で、山岡の存在は一躍全国区になった。山岡をブレイク直前に獲得できた東京ガスは幸運だった。
東京ガスに入ってからも、山岡は物怖じすることなく、1年目から戦力になった。1年目はクローザーで活躍。タテのスライダーの威力はもちろん、勝負度胸が抜群だった。
菊池監督も、山岡の図太さにあらためて驚いている。
「都市対抗予選の前に、新人を集めて大会の仕組みを毎年説明するんです。トーナメントだけど敗者復活があることを説明すると、山岡が『要するに負けても次があるってことですよね』と言うんです。我々はいつも『負けられない戦いだ!』と言っているんですけど、山岡の発言はもっともな話で、『おぅ、そうだな』と返すしかありませんでした」
都市対抗の本大会でもクローザーで鮮烈なデビューを果たすなど、山岡のマウンド度胸は社会人1年目からトップクラスだった。
次回、「先発でこそ良さが出る」
(※本稿は2016年11月発売『野球太郎No.021 2016ドラフト総決算&2017大展望号』に掲載された「28選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・久保弘毅氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)