秋や春の大会では好成績を収めながら、甲子園出場を懸けた大会では結果が出ない、なんとも残念なチームが全国に点在していることはご存じだろうか。なんとかして悲願の甲子園出場を成し遂げたい高校のことを、「悲願校」と呼び、雑誌『野球太郎』では、No.005とNo.009の夏の高校野球大特集号にて記事を掲載している。
この記事の歴史を振り返ると、第1回目は『高校野球小僧2008夏』(白夜書房)で行われており、今年で7年目を迎える。この記事をずっと担当し、「悲願校マップ」を作成・連載しているのが、田沢健一郎さんだ。今回はそんなディープ観戦者の田沢さんに「悲願校」について話を聞いてみた。
幼い頃から高校野球が大好きで、20年来の高校野球ファンです。野球部だった中学生の頃から毎年、全国各地の甲子園出場校を予想する根暗な子どもでしたね(笑)。すると、だんだんと見えてくるんですよ。「ああ○○高校はまた今年も甲子園出場か」とか、反対に「○○高校はまた甲子園に行けなかったのか」とか。
その後、鶴商学園(現鶴岡東)に進学し、野球部に入部して実際に甲子園を目指していました。当時、同じ山形県の羽黒が秋と春の大会では優勝するなど抜群の強さをみせるも、甲子園がかかる大会や試合では、なぜかずっと優勝できない。それが妙に印象的で、ライバル校でありながら「なんて可哀想なんだ……」と特別な想いを持つようになりました。
さらに全国でも、例えば1992(平成4)年の長崎日大は「間違いなく甲子園に行くだろう」というほどの戦力が揃っていたにもかかわらず、甲子園初出場はならなかった。ところが、その1つ下の代がアッサリ出場を決めてしまった。個々の選手の能力が高くても甲子園には行けない、甲子園に行けない高校には何か原因があるんだろうか、という疑問を持ったのが、悲願校に注目するようになったきっかけです。
何といっても光星学院(現八戸学院光星)でしょう。1994(平成6)年から3年連続、青森大会の決勝で敗退、そこで3年連続で登板したのが洗平竜也(元中日)でした。さらに洗平が卒業した翌年、光星学院は甲子園初出場を果たすという、何とも言えない歴史があるんですよね。このときの洗平の心中はいかに……と、気になって取材に行ったこともありますよ。
もちろん羽黒も印象深い悲願校です。羽黒の話ではもう1つありまして、1995年に出版された高校野球専門誌に「もうすぐ初出場」というコーナーを発見しました。それは、まだ甲子園に出場していない高校の公式戦の成績をポイント化しているもので、その全国1位にランクしていたのが羽黒高でした。印象だけではなく、数字でも明らかになったことで、「やっぱり羽黒なのか」と悲願校ぶりを確信しましたね。
結局、羽黒が甲子園に初めて出たのは、雑誌で紹介されてから8年かかって2003(平成15)年でした。「(甲子園出場が)遅いよ!」と言いたくなりましたよ(笑)。無事に出場できて、よかったです。
もう1つ、愛知県の豊川も思い入れは強いです。内藤尚行(元ヤクルトほか)や白井康勝(元日本ハムほか)、現役では森福允彦(ソフトバンク)ら、多くのプロ選手を輩出。1950年代から愛知大会では上位常連校として君臨し、あと1歩の壁が破れなかったんです。低迷した時期もありましたが、復活してきた、という歴史を経ているだけに、今春のセンバツ出場時には涙ぐみました。よくぞここまで長い間、学校関係者は甲子園出場を諦めなかった、と。あ、自分は豊川とは何の関係もないんですがね(笑)。
豊川の場合はセンバツで甲子園出場は叶いました。自分は甲子園初出場校が大好きですが、春も夏も出場していない高校こそ、本当の「悲願校」と言えるのでは……と考えています。やはり1度でも“聖地”を踏んだか踏まないかの差は大きいでしょう。
それと『野球太郎』などで悲願校を選出する際は、できるだけバラエティに富んだ高校を紹介するため、主観的ではありますが「印象」という評価の比重を高くして選出しています。光星学院のように短期間でインパクトを受けた高校や、豊川のように“悲願歴”が長い高校、創部や野球部強化開始から早い段階で結果が求められる高校など、その周辺は様々ですから。
あと、地域性も考慮することが多いですね。同じ県内でも、市や地区によっての悲願校もあるのです。千葉県を例にすると、実は松戸市の高校は未だに甲子園に出場していません。今夏こそ専大松戸にその壁を破ってほしいと思っています。