東京六大学リーグで、東京大がリーグワーストタイとなる70連敗を記録した(※)。東大が勝てない一番の理由はスポーツ推薦枠がないこと。他大学には甲子園経験者が集まる一方で、東京大野球部員は厳しい「東大受験」を突破した一般学生のみ。1浪、2浪も当たり前の状況だ。
ただ、そんな東大野球部からも、過去に5名のプロ野球選手を輩出している。いずれも個性的なキャリアを送った選手ばかりだ。東大野球部へのエールもこめて、歴代東大出身プロ野球選手の足跡を振り返ってみたい。
東大野球部出身として初のプロ野球選手になったのが新治(にいはり)伸治だ。大学4年間(1961〜64年)で東京六大学リーグ通算8勝43敗の戦績を残したあと、1965年に大洋漁業(後のマルハ、現在のマルハニチロ)に入社した。
しかし、ほどなくして、身分はサラリーマンのまま子会社である大洋ホエールズ球団へ「出向」。球団オーナーの「南氷洋に2、3年行ったつもりで、ちょっとプロで投げてみなさい」という遊び心からユニフォームを着ることになったのだ。プロ生活4年間で通算9勝6敗の成績を残し、1968年に退団。大洋漁業に復帰した。1987年には大洋球団の非常勤取締役も務めている。
東京大野球部在籍時はエースとして活躍。1966年のドラフトで中日から指名を受け、三菱商事の内定を辞退して入団したのが井手峻。1年目にリリーフ登板で1勝を挙げる。ちなみにこの試合、対戦チームの大洋も、途中から上述した新治が登板。プロ野球史上、後にも先にも1度きりの「東大出身投手の投げ合い」が実現した。
その後、1970年に外野手に転向。100メートル11秒台前半の俊足を生かし、守備固めと代走でチャンスを広げた。1973年5月5日に東京大卒選手としては史上初の本塁打を放つ。1976年現役引退。コーチ、2軍監督を経てフロント入りし、編成担当の球団取締役を務めた。
前回の70連敗時(1987年秋〜1990年秋)にエースだったのが、東京大3人目のプロ野球選手、小林至だ。東京六大学リーグ通算0勝(12敗)ながら、練習生を経てドラフト8位でロッテに入団。大学で1勝もしていない投手のプロ入りに「話題先行」と当時物議を醸した。現役生活2年間で1軍での登板はなかった。
退団後に渡米し、コロンビア大学経営大学院でMBAを取得。帰国後は参院選出馬、大学助教授などさまざまな経験を経て、2005年から福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役を務めた。2011年、杉内俊哉(現巨人)をFA移籍で流出させてしまった責任を取り、取締役を辞任。現在、ソフトバンク統括本部副本部長を務める。
「いつか神宮のマウンドで投げたい」という夢を抱き、「自分が神宮でプレーできるとすれば東大だけだ」と、野球のために1浪の末、東京大入学を果たした努力の男・遠藤良平。東京六大学リーグ通算8勝(32敗)は平成以降では東京大最多勝。また、当時「東京六大学本塁打記録」を更新した高橋由伸(慶應義塾大→巨人)を9打数2安打(打率.222)に抑えるなど「由伸キラー」でもあった。
1999年のドラフトで日本ハムから7位指名を受けて入団。2年目の消化試合で、1試合だけ1軍での登板を果たし、シーズンオフに現役引退。引退後は、日本ハム・ベースボールオペレーションディレクターを務めている。
現役で東京大に合格し、エースとして活躍。東京六大学リーグ戦では通算25試合に登板し3勝17敗を記録した。2004年のドラフト会議で横浜が9巡目指名で交渉権を獲得。入団合意をしたものの、1単位足りずに卒業できず、春のキャンプ終わりに大学へ戻って試験を受け直した。結果的に初の「現役東大生プロ野球選手」となった。