遊撃手として入団し、プロ入り後に様々なポジションを守った森野。外国人選手との兼ね合いなどもあり、一塁、二塁、三塁、遊撃、外野の守備についた。そのなかで最も多く守ったのが三塁だった。
現役晩年は主に一塁を守り、2014年にはゴールデン・グラブ賞を受賞しているが、一塁での通算出場数は530試合。一方、三塁では一塁より300試合以上も多い842試合に出場している。2009年から2012年までの4年間では、毎年100試合以上、三塁守備に就いた。
打撃では2009年、2010年に20本塁打超えとリーグ最多二塁打を達成しているが、どちらも三塁をメインで守っていたときの成績だ。また、キャリアハイの打率.327も2010年。年齢的に31歳から34歳と働き盛りだったこともあるが、三塁固定がいい打撃結果をもたらしたといえそうだ。
入団以来、森野ほど背番号が移り変わった主力選手はそうはいないだろう。1996年のドラフトで入団時は「56」を与えられたが、その後「7」「8」「16」「8」「31」「30」「7」と7度変更。引退までに8つの背番号を背負った(なお、来季からはコーチとして新たに「75」を背負う)。
そんな森野には背番号に関しても「3」にまつわるエピソードがある。その変遷のなかに、ミスタードラゴンズ・立浪和義氏の背番号「3」が加わる可能性があったのだ。
2009年に森野は全144試合に出場。前述した通り初の20本塁打超えとなる23本塁打を記録し、リーグ最多の42二塁打を放つなど確固たる地位を築き上げた。その活躍を受けて背番号「31」から、その年限りで引退する立浪氏の背番号「3」を継承するプランが浮上。白井文吾オーナー自らが継承を口にするほどだった。
中日には服部受弘氏の「10」、西沢道夫氏の「15」を除き、永久欠番を制定しない方針がある。そのため立浪氏の功績は偉大ながら「3」が永久欠番になる可能性は低い。それだけに、この継承の話は現実味を帯びていた。しかし、森野本人が固辞したこともあり、実現には至らなかった。結局、森野は「3」ではなく「30」を背負った。
来シーズンからは打撃コーチとしてチームを支える森野。中距離打者として二塁打を量産した技術を後輩たちに伝えてくれるだろう。5年連続Bクラスとなったチームを立て直すには、黄金時代を知る森野の力が必要だ。1年でも早く一流打者を育てることを期待したい。
文=勝田聡(かつた・さとし)