1937年に外国人投手として初めてノーヒットノーランを達成したのはスタルヒン(巨人)。幼少期にロシア革命から逃れて一家で日本に亡命した生い立ち、日本の中学(現在の高校)に入学し、甲子園を目指していたことから、本来は“助っ人”とは呼べないが、記録上の最初の達成者だ。
続いて1940年、1941年に2度のノーヒットノーランを達成したのは日系2世の亀田忠(イーグルス)。荒れ球の剛球タイプの投手でノーヒットノーラン達成時も9四死球、6四死球を出しての偉業達成だった。しかし、2度目のノーヒットノーランのわずか2カ月後、日米関係の悪化により、アメリカ本国の命令で帰国している。
3人目は台湾出身の呉昌征。巨人、大阪、毎日で活躍し、大阪タイガース時代の1946年に達成。本職は外野手だったが、終戦直後の人手不足でローテーションに入り、即席の二刀流になった。戦時中、甲子園のグラウンドが芋畑になった際には台湾・嘉義農林学校出身ということもあり、耕作を指導していたという。ただ、ノーヒットノーラン達成する以前の1942年に日本に帰化しているため、厳密な意味での“助っ人”とは言えないかもしれない……。
いわゆる「助っ人らしい助っ人」として時代を切り開いたのはバッキー(阪神)。1964年に外国人投手として初めて沢村賞を受賞し、翌1965年6月28日の巨人戦でノーヒットノーランを達成した。
次の達成者は「オリエンタル・エクスプレス」こと郭泰源(西武)。最速156キロの当時では破格のストレートを引っさげて、1985年に来日。6月の日本ハム戦でノーヒットノーランを達成した。1966年から1993年まで日本プロ野球の1軍登録が可能な外国人は2人(支配下登録は3人)。そのため、投手よりは毎日出場できる野手が優先される傾向にあった。しかし、郭泰源の活躍もあって、1994年からは外国人枠が3人(投手3人、野手3人は不可)になり、助っ人投手の活躍の場が整った。
その恩恵を受けて、1995年に来日したのはブロス(ヤクルト)。初年度に14勝5敗、防御率2.33の好成績でリーグ優勝に貢献。9月9日の巨人戦でノーヒットノーランを達成した。その年は最優秀防御率を獲得するなど大活躍を見せたが、翌年からは徹底マークに遭い、4年で日本球界を去った。
2000年には2人の助っ人がノーヒットノーランを達成した。4月7日、来日早々に大記録を築いたのはバンチ(中日)。テキサス出身のナイスガイで1年目には14勝8敗で最多勝に輝いた。翌2001年も10勝8敗の成績でローテーションになくてはならない存在だったが、2002年のシーズン中盤、登板当日に体調不良を訴え、不整脈が発覚。そのまま退団、現役引退した。
ただ、チームメートは「普段は明るかったが退団前は元気がなかった」と証言しており、今思えば謎の引退だった。現在は元気に地元テキサスで造園業を営んでいるという。
同年の6月20日にはエルビラ(近鉄)が達成。それまでわずか1勝だったが、ようやくエンジンがかかり、その年は27登板、21先発で6勝7敗、防御率4.64の成績を収めた。その時期のパ・リーグが超打高投低の時代だったため、評価が分かれるところだが、ノーヒットノーランで爪痕を残した。
近鉄で2年間プレーした後、韓国球界でも活躍。引退後は母国メキシコでサトウキビ農園を営んでいたが、2015年6月16日に従業員3人とともに旅行先で誘拐され、7月10日に地元警察に救助された。無事で何よりだが、あのノーヒットノーランがなければ日本で報じられていたかは微妙なところだ。
直近では2006年にガトームソン(ヤクルト)が達成。ただし、ガトームソンはそのオフに起用法を巡って球団と対立し、ソフトバンクに移籍している。
さらに翌2007年にはドーピング検査で禁止薬物が検出され、出場停止処分に……。これは育毛剤に含まれていた成分が検出されたもので、ガトームソン自身は球団に使用を申請していたが、球団がNPBに確認を怠ったため、日本プロ野球初のドーピング違反選手になってしまった。なお、現在ではその時に検出されたフィナステリドは禁止対象から外れている。
当時、ガトームソンは30歳。頭が涼しそうな印象はまったくなかったが、よく見ると確かにおでこの広がりは密かな悩みだったのかも知れない。ただ、この一件からガトームソンへの視線はおでこに集まった。我々が「よく見る」ことになったことも実に不幸である。
何やら2000年以降は不吉な出来事が続いているが、次なるノーヒットノーラン助っ人投手の誕生に期待したい。
(※カッコ内の球団名はノーヒットノーラン達成時の球団)
文=落合初春(おちあい・もとはる)