たくさんのドラマをみせてくれた甲子園大会も無事に終了。優勝した東海大相模ナインをはじめ、思い出に残る激闘を幾度となく演出してくれた甲子園球児たちには改めて、「ありがとう! そして、お疲れ様!!」と感謝を込めて伝えたい。
センバツ優勝チームにアメリカ旅行を。こんな企画が組まれたのは1927年(昭和2年)春の第4回大会でのこと。そして見事にそのプレゼントをゲットしたのは当時、無敵を誇っていた和歌山中(現和歌山県立桐蔭高等学校)だった。エース・小川正太郎投手は「試合中はアメリカ行きを忘れていたが、優勝して宿舎に帰るとアメリカに行けるぞ! と喜びが湧いてきて、全員がうれし泣きに泣いたものだ」とコメントしている。昭和初期の日本国民にとって、海外旅行など高嶺の花。外交を担当する政府関係者くらいしか海外に行く機会はない時代だったのだから、和歌山中ナインの狂喜乱舞ぶりは想像に難くない。
一行は7月6日に横浜を出港し、約2週間の航海を経てバンクーバーに到着。日系人の多いアメリカ西海岸方面で試合をするなど各地で親交を深め、また大歓迎を受けたという。とにかく観るモノ全てが珍しく、珍談も数多く生まれたという記録が残っている。
例えば、和歌山中には稲田金太郎という選手がいた。シアトルからバスで山岳地帯に移動する最中に道路に大きな熊が現れた。一同が驚いていると、あるメンバーが「稲田、おまえは金太郎という名前だから、あの熊と勝負してこい」と冷やかされ、バスのなかで稲田選手は大きな体を小さくしていたそうだ。
また、「山下行方不明事件」もあった。とある夜、選手はみなパーティに参加し、ホテルに戻ってくると、山下好一選手だけが行方不明になってしまった。どこに行ったかわからず、もちろん大騒ぎに。しかし、実はパーティの前にホテルの風呂場に入ったが、自動的にかかってしまったカギの開閉操作がわからず、閉じ込められていたという。パーティに参加できず、1時間以上も一人で閉じ込められてしまった山下選手は、しょんぼりしていた。
このような「事件」をはじめとする数々のエピソードを残して、和歌山県の球児たちは約2カ月に渡る珍道中を終え、9月3日に帰国したのだった。
そんな夢のような時間を過ごした和歌山中ナインだが、最大のオチは日本で起こっていた。アメリカ遠征に行ったメンバーは和歌山中野球部のレギュラーメンバー。このレギュラーメンバーが日本を留守にしている間、当たり前だが甲子園を目指して地方大会が行われていた。和歌山中は留守番組の2軍メンバーで大会に出場。そして見事に勝ち抜き、甲子園出場の切符を手にしてしまった。
遠征組はサンフランシスコでこのニュースを聞いて驚き、和歌山県の他校の野球部は「俺たちは2軍のメンバーにすら、勝てなかったのか...」と大きなショックを受けたそうだ。いずれにせよ、当時の和歌山中の選手層の厚さ、チームの強さを物語るエピソードである。
ちなみに春のセンバツ大会優勝校がアメリカ遠征するのは、春の大会を主催していた毎日新聞社が、夏の大会を主催していた朝日新聞社に対して、「夏の甲子園大会」の注目を逸らし、興味をそぐ目的があったのでは? という陰謀説も存在するという……。いずれにせよ、1932(昭和7)年の第9回大会から、日本政府が外国チームとの試合を禁止する野球統制令を出したことにより、それ以降のアメリカ遠征は中止になっている。