今夏、100回目を迎える夏の甲子園。100回大会を記念して、これまでの甲子園の歴史から100のトピックスを厳選。第2回は戦前・戦中の高校野球黎明期の怪物たちを紹介したい。
【11】中学球界の麒麟児
1924年夏を皮切りに甲子園に8度出場、伝説の左腕として知られるのが和歌山中・小川正太郎だ。快速球と「二階から落ちてくる」と評されたカーブを武器に、1926年夏の準決勝では8連続奪三振を記録。優勝1回、準優勝2回の好成績の原動力となった。
「中学球界の麒麟児」と呼ばれ、この頃から球場は満員に。甲子園球場が1924年に開場した点から見れば、初代・甲子園スターといえる活躍を見せた。
【12】初代三冠王にして鉄腕
1938年秋にプロ野球史上初の三冠王に輝いた中島治康(元巨人)も甲子園で鳴らした大スターだった。松本商(現松商学園)のエースとして、自慢のシュートで内角をガンガン攻めて、1928年夏の優勝投手に。後述する野口二郎より一足先に「鉄腕」と呼ばれた。
【13】甲子園最多勝投手
中京商(現中京大中京)で1931年春から6季連続で甲子園に出場。全国制覇3回、準優勝1回、4強が2回と勝ちに勝ちまくったのはエース右腕・吉田正男だった。特に夏は史上唯一の3連覇している。
1933年夏の準決勝では明石中との延長25回の死闘を一人で投げ抜き、なんと完封勝利。ストレートとカーブのコンビネーションを駆使した投球が光る頭脳派右腕だったと伝わっている。甲子園通算23勝は史上最多。
【14】初代トルネード投法
中京商・吉田正男と延長25回の死闘を演じた明石中のエース・楠本保もまた凄まじい投手だったという。件の一戦は疲労のため、登板できなかったが、その剛球は全国に知られる存在。いわゆる“トルネード”気味のサイドスローでカーブ、ドロップ、シュートを使い分けた。
捕手の福島安治は「楠本の球を受け続けたために今も左手の親指が動かない」と明かしている。左手の甲が内出血することも日常茶飯事だったという。
【15】空箱を銭に変えたミスター・タイガース
1934年夏の甲子園を制した呉港中(前大正中、現呉港)のエースで主砲といえば、藤村富美男(元大阪タイガース)だ。「初代ミスター・タイガース」としても知られるが、学生時代からすでに大スターだった。甲子園で全国のライバルと幾度もの名勝負を繰り広げ、当時は土盛りで平たかった外野席に観客が殺到。乗って見るための空箱を売る者も現れたという。
【16】才能の片鱗
1934年秋の日米野球で17歳にして全米オールスターを1失点に抑え込んだ沢村栄治(元巨人)も甲子園組。大正中〜呉港中の藤村富美男、明石中の楠本保などと名勝負を繰り広げた。3大会で3勝3敗に終わっているものの、6試合中5試合で2ケタ奪三振を記録。才能の片鱗を見せていた。
【17】全国制覇3度! 「三尺」と呼ばれたカーブ
岐阜商(現県岐阜商)で1933年春、1935年春、1936年夏の3度にわたって全国制覇を果たした左腕エースは松井栄造。落差の大きいカーブは「三尺」と呼ばれた。当時は左腕+快速球+タテのカーブ&ドロップが鉄板だった。
早稲田大でも野手として活躍し、大学野球人気に一役買ったが、1943年に戦死している。
【18】天魔鬼神の快投
1939年夏の甲子園で全国制覇を果たした海草中(現向陽)の左腕エース・嶋清一はレジェンドの中のレジェンド。1939年夏の甲子園が6度目の出場。これだけでも凄いが、なんと決勝も含めた全5試合を完封し、準決勝と決勝でノーヒットノーラン。剛速球と「懸河のドロップ」を武器に快投劇を見せた。
卒業後は明治大に進学したが、学徒動員で戦死。24歳の若さでこの世を去った。
【19】ライバルに実力を見せつけた「鉄腕」
嶋清一から甲子園で2勝を挙げたのは、中京商(現中京大中京)のエース・野口二郎(元阪急ほか)。のちにプロで「鉄腕」と呼ばれることになるタフネス自慢の好投手で、1937年夏、1938年春と和歌山・海草中に勝利し、そのまま全国制覇。特に1938年春は嶋清一との投げ合いでノーヒットノーランの快投を見せた。
【20】甲子園の土持ち帰り“暫定”第1号
打撃の神様として知られる川上哲治(元巨人)も学生時代はエースだった。1937年夏の決勝では、中京商・野口二郎と投げ合い惜しくも敗戦。このとき、川上が甲子園の土をポケットに入れて持ち帰り、母校・熊本工のグラウンドに撒いたのが「甲子園の土持ち帰り」の始まりとされる説もある。本人は「前にもやっている選手がいた」と語っているが、文献上の初出は川上だ。
文=落合初春(おちあい・もとはる)