「引きわけで良かった…終わった瞬間、涙が出そうになった」〜甲子園九十年物語〈1948-1959〉
先日の8月1日には、誕生からちょうど90年を迎えた甲子園球場。前回(1936〜1947)に引き続き、1948年〜1959の12年間に甲子園で活躍した、12人の偉人たちの足跡を振り返ってみたい。
◎12人の偉人で振り返る
〜甲子園九十年物語〈1948−1959〉
<学制改革がもたらした大きな変化>
第二次世界大戦に敗れた日本。米国から突き付けられたのが「学制改革」だ。小学校は6年間、中学校は3年間、高校は3年間のいわゆる6・3・3制に変わり、以前までの中等学校が高等学校に改称された。
この影響で旧制中学であれば卒業するはずの選手たちの在学が一年延長され、新制高校の3年生として再び、甲子園に帰ってきたのだった。1948(昭和23)年、「選抜高等学校野球大会」と改められた春のセンバツ大会では、前年度優勝投手の
蔵本忠温(徳島商)が、「全国高等学校野球選手権大会」と改称された夏の甲子園大会ではこちらも前年度優勝投手の
福島一雄(小倉高)が甲子園球場に凱旋。大会を大いに盛り上げた。ちなみにこのときに作られた「栄冠は君に輝く」(
加賀大介作詞、古関裕而作曲)は、現在も大会歌として使われている。
その後も高校野球人気は止まるところを知らず、甲子園球場は熱狂の渦と化した。翌1949(昭和24)年の春は、後に西鉄(現西武)で大活躍する怪童・
中西太(高松一高)が登場。夏はノーマークだった神奈川の湘南高が優勝。こちらも後にプロ入りする
佐々木伸也の活躍が目立った。
また、球場の西側に開設した甲子園水上競技場では、水泳の全日本選手権大会が開催。当時、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた
古橋廣之進が世界記録を連発し、甲子園球場の高校野球大会と同様に、敗戦した日本に勇気と希望を与えた。
<プロ野球が2リーグに分裂!>
1950(昭和25)年、今度はプロ野球界に激震が走る。1リーグ制から2リーグ制に分裂したのだ。この影響を受けたのが甲子園球場を本拠地にする大阪タイガースだ。監督兼主戦投手の若林忠志、別当薫、土井垣武ら6名がパ・リーグに引き抜かれ、入団が内定していた荒巻淳も他球団に奪われてしまった。
大幅に戦力ダウンした大阪タイガース。しかし、ここで侠気をみせたのが
藤村富美男である。「わしゃタイガースの藤村じゃ」と残留して、甲子園球場で大暴れ。藤村の大活躍は、甲子園球場には人が入りきれないほどのプロ野球ブームを招いたのだった。
<戦後の爪痕を乗り越えて…>
1951(昭和26)年、夏の甲子園で話題になったのが、平安高(現龍谷大平安高)の
西村進一(旧姓は木村)監督である。太平洋戦争で右手首を失うも、義手にボールを乗せて左手一本の猛ノックで選手を鍛え上げ、この年の大会で全国制覇を成し遂げた。
戦後の爪痕を乗り越え、次第に活気づく日本。それと呼吸を合わせるかのように、甲子園球場も復活を果たしていく。戦時下に撤収された鉄傘は、近代的なアルミニウム製の“銀傘”となって復活した。当時の金額で8000万円もの大金をかけたというから、野球に対する熱狂ぶりが、いかに大きかったがわかる。また、こちらも戦前の球場名物だったカレーライスが復活。コーヒー付きで60円だったという。
さらに1953(昭和28)年、春のセンバツ大会から甲子園球場にはウグイス嬢が登場。夏の大会からはテレビ中継も始まるなど、高校野球の人気とともに甲子園球場の知名度は飛躍的にアップ。日本全国の球児たちにとって甲子園球場が“聖地”となり、甲子園出場こそが球児たちの夢となっていったのだった。
<戦後の名選手・名勝負を生み出した甲子園球場>
1956(昭和31)年にはナイター照明設備が完成した甲子園球場。翌年の春のセンバツ大会では、第1回大会決勝で高松商高に敗れて以来、実に33年ぶりに早稲田実が悲願の優勝を果たした。その立役者が、あの
王貞治(元巨人、現ソフトバンクホークス会長)である。さらに夏の大会にも出場した王は寝屋川高戦でノーヒット・ノーランを達成、しかも延長11回まで投げての記録達成だった。
そして1958(昭和33)年、第40回記念大会の夏の甲子園大会では、今でも語り草となっている名勝負が生まれた。魚津高vs徳島商高の延長18回引き分け、翌日再試合の熱戦である。準々決勝第4試合、午後4時25分に始まったこの試合は、魚津高・
村椿輝雄と、徳島商高・
板東英二の壮絶な投げ合いで、打ち切りの18回までも決着がつかず、照明灯が煌めくなかでゲームセット。翌日の再試合では徳島商高が勝利し、2つの試合で先発完投した板東は前日の試合では25奪三振、再試合では9奪三振を記録。2日間で合計34もの三振を奪ったのだった。試合後、その板東と村椿は「
相田暢一球審の大きなゼスチャーが我々を力づけてくれた」とコメント。歴史に残る名勝負を影で支えた「助演男優賞」は球審の相田だった。
【pick up!】
蔵本忠温、福島一雄、加賀大介、中西太、佐々木伸也、古橋廣之進、藤村富美男、西村進一、王貞治、村椿輝雄、板東英二、相田暢一
以上、12名の偉人の中から、さらに掘り下げたい人物を3人紹介したい。
◎Man of the period〈1948-1959〉
加賀大介
“雲はわき、光あふれて……”と、聞き覚えのあるこの曲はご存じ、夏の甲子園大会歌「栄冠は君に輝く」である。大会を主催する朝日新聞社が1948(昭和23)年、全国的に歌詞を募集。当時、石川県で文筆活動をしていた加賀大介氏は作詞した後、婚約者の道子さんへのプレゼントとして作者を「加賀道子」として応募。すると応募総数5252通のなかから最優秀作品として見事、当選を果たした。それから長い間、作詞者は「加賀道子」になっていたのだ。
ところが、夏の甲子園が日本中で空前の盛り上がりをみせ、大会歌も有名になるにつれて加賀氏は悩むようになる。本人の名前ではなく、婚約者の名前で応募したことを気にしていたのだ。20年間も悩み続けていた加賀氏は、1968(昭和43)年の第50回大会の時に全てを明告白。以降、作詞者は正式に「加賀大介」となっている。
◎Man of the period〈1948-1959〉
藤村富美男
「初代ミスタータイガース」は甲子園球場で育ち、同時に甲子園球場を育てたといってもよいだろう。広島生まれの藤村は中学時代にはなんと、春夏あわせて6度も甲子園に出場。主に投手として活躍していた藤村は同世代のライバル、京都商の沢村栄治や熊本工の川上哲治(ともに元巨人)らと名勝負を繰り広げていた。この「甲子園の申し子」ともいわれた藤村を、当時の大阪タイガースが見逃すわけがない。熱心な勧誘で口説き落とし、入団させたのだった。
甲子園に帰ってきた藤村は、入団当初は投手として活躍する。兵役を挟んで戦後は三塁手として活躍。1947(昭和22)年以降は不動の4番打者として「ダイナマイト打線」を牽引。「ミスタータイガース」を観るために、甲子園球場には入りきれないほどのファンが押し寄せたという。
ゴルフのクラブからヒントを得たといわれている通常より長いバットを愛用して、本塁打を量産。甲子園球場を沸かせたそのバットが「物干し竿」とよばれていたのは、あまりにも有名である。
◎Man of the period〈1948-1959〉
相田暢一
北海道出身の相田は、旧制小樽中時代には投手として活躍。その後、早稲田大に進学して野球部に入部するも肩を痛めて現役を断念し、マネージャーに転身。1943(昭和18)年、戦時色が濃くなる状況で最後の早慶戦といわれた「出陣学徒壮行早慶戦」の実現に奔走したほか、野球用具を合宿所に保存して戦後の復活に備えた。その後は早稲田大野球部の監督を歴任し、1949(昭和24)年からはアマチュア野球で審判も務めた。
前述した魚津高vs徳島商高の延長18回引き分けの試合。球審を務めた試合後、「引きわけで良かった…。終わった瞬間、涙が出そうになった。こんな立派な試合を無事に務めることが出来て幸せだった」とコメント。激動の時代を駆け抜け、野球を愛し続けた相田氏は今年の1月、その功績が認められて野球殿堂特別表彰者に選出されている。
■ライター・プロフィール
鈴木雷人(すずき・らいと)/会社勤めの傍ら、大好きな野球を中心とした雑食系物書きとして活動中。自他共に認める「太鼓持ちライター」であり、千葉ロッテファンでもある。Twitterは
@suzukiwrite
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