2002年10月1日、養父鐵氏はダイエーから戦力外通告を受けるも、その4日後には、ダイエー時代のチームメイト、カルロス・カスティーヨ(元ホワイトソックスほか)との縁でマイアミに降り立った。カルロス・カスティーヨの自宅に泊まり、トレーニングを積み、ホワイトソックスの入団テストに合格。傘下のチームに所属し、2003年からマイナーリーガーとして新たな道を歩み始めた。
また、同時期にベネズエラとメキシコでのウインターリーグにも参加。ベネズエラでも、メキシコでも、日本人は養父氏だけだった。アメリカでは、何でも自分でやるしかなかった。
「アメリカに行った当時は、マイアミで話されている英語もスペイン語もわからない。通訳もいない。エージェントもいない。だから、自分ひとりでやるしかない。ホワイトソックスとの契約書もカルロスに教えてもらいながら自分で書いて。台湾でプレーしていたから北京語は話せたけど、英語で喋ろうと思ったら、北京語が出てきたり(笑)」
ただ、おかげで野球にだけ集中できたのでよかったという。養父氏は1年目の2003年、シーズン開幕早々に2Aから3Aに昇格。2年目には3Aでノーヒットノーランを達成する。ベネズエラとメキシコのウインターリーグでは開幕投手も務めた。球は走っている。力の差を感じることは少なかった。
なお、ベネズエラではアレックス・カブレラ(元西武ほか)、レンジャーズ時代のダルビッシュ有(ドジャース)とバッテリーを組んだヨービット・トレアルバがチームメイト。メキシコではマーク・クルーン(元横浜ほか)が相手チームのマウンドに立っていた。
ベネズエラにメキシコ、治安も気になる……。
「治安はめちゃくちゃ悪かった。ベネズエラでは銃の撃ち合いが目の前で3回起こったし、試合中にブルペンで投げていると防弾チョッキを着たガードマンが2人後ろにいるんです。1人は銃を持って、1人は犬を連れて。日本にいる知人からは“危ないからやめておけ”と言われたんですけど……。でも、野球をやりたかったから」
養父氏はアメリカでも“外国人選手”としてタフに野球を続けた。
このような話を聞くと、普通は苦労が多分ににじみ出たり、悲壮感が漂うものだが、気さくな養父氏にはそんなムードはまったくない。第1話で触れたエピソードだが、ギターとオールディーズなロックンロールが大好きな養父氏は、マイナー時代、移動中のバスの中でギターを手に『ラ・バンバ』を歌って、大喜びするスパニッシュ系の選手と交流を深めている。そのバイタリティの源にあるものは?
「僕はどこにいても楽しむことができます。だから、そこにある苦労を大変とはとらえていなくて。しょうがないと割り切って、目の前にあるものから一番よくて、楽しい方法を見つけるだけ。しかも、自分だけ楽しむんじゃなくて、周りの人にも楽しんでもらえることを、常に考えるタイプです。おかげで、アメリカに行って、外国人の友達もいっぱいできました。そこで培った縁が、引退後の仕事につながっているし、積んだ経験が去年の徳島での独立リーグ日本一にもつながっています。ほかの人よりコミュニケーション能力に長けているんでしょうね」
人が好き。それが養父氏の前向きなスピリットの根底にあるように思える。「苦難に燃えるタイプ?」と聞くと、「いや、燃えるというよりは“できる”と思ってしまうタイプ」と返ってきた。
道なき道を切り拓くことで、ほかの人には想像のできない場所にたどり着ける。普通では見られない景色を見ることができる。
「本当にそうだと思います。僕は誰かの世話になるのが嫌。だから、自分で道を切り拓いて、野球も、生活も、言葉の壁もクリアしてきました。普通では経験できないことを経験できましたね。その姿勢は今も変わりません」
“野球をしながら生きていく”を実践した選手。そんなことが頭に浮かんだ。その言葉を伝えると養父氏は否定せず、さらに続けた。
「でも、野球をしながらほかのやりたいこともずっと続けてきました。音楽もやるし、ハーレーにも乗るし、サーフィンも。野球選手は海に入っちゃいけないと言われたこともありましたが、昔から駄目と言われると余計にやりたくなってしまう。アメリカに渡った時も『 何やってんだ、アイツ』と思われたけど、『 俺はやるよ』と。そういう性分なんでしょうね(笑)」
養父氏は2005年にアメリカの独立リーグでプレー後、2006年に兄弟エレファンツに復帰。開幕投手を務めるもケガで力を発揮できず。2007年に再びアメリカでトライアウトを受けるも契約に至らず、波乱万丈の現役生活を終えた。
自身で「どんな野球選手だったと思うか」と問うてみた。返ってきたのは「ほかにいない選手でしょうね」。
次回、第3話からはユニフォームを脱いでも、まだまだ続くアグレッシブな野球人生を聞いていきたい。
(※文中一部敬称略、第3話に続く)
協力:日本プロ野球OBクラブ