33年ぶりの快挙! 東大野球部の3年生左腕、宮台康平が1983年の大越健介以来となる侍ジャパン大学日本代表入りを果たした。
今春2勝を挙げ、東大投手としては21季ぶりの完封勝利も記録した宮台。一部報道では、ロッテが2014年の京大・田中英祐に続いての最難関国立大からのドラフト指名を視野に入れているという。
高校球児【コース別】プロ入り物語・ユニーク篇。今回は、宮台の今後の活躍を占うべく、赤門からプロへと旅立った男たちの物語を振り返ろう。
東大出身選手について振り返ると、70年代以前、空白の80年代、90年代以降、と3つの系譜に分けることができる。
1965年、東大出身者として初めてプロ野球選手になったのが新治伸治だ。ただ、そのプロ入りの経緯は極めて異質だった。
新治は大学4年間で東京六大学リーグ通算8勝43敗の戦績を残したあと、1965年に大洋漁業(後のマルハ、現在のマルハニチロ)に“サラリーマン”として入社。ところが、入社後すぐに、子会社である大洋ホエールズ球団への“出向”を命じられる。
「南氷洋に2、3年行ったつもりで、ちょっとプロで投げてみなさい」
そんな球団オーナーの遊び心からプロのユニフォームを着ることになったのだ。
そして、“ちょっとプロで投げてみた”新治は、4年間で通算9勝(6敗)を挙げたのだから立派のひと言。もっとも、プロにそれほど未練はなかったのか、1968年に退団し、大洋漁業に復帰した。
そんな新治とプロの舞台で投げあったのが井手峻だ。1966年のドラフトで中日から指名を受け、三菱商事の内定を辞退して入団した。1年目にリリーフ登板で1勝を挙げたが、このときの対戦相手が大洋。上述した新治が登板し、プロ野球史上唯一となる「東大出身投手の投げ合い」が実現した。
その後、井手は1970年に外野手転向。1973年には東大卒選手としては史上初の本塁打を放ったが、1976年に現役引退している。
80年代の東大野球部は、投打とも歴史に残る選手を輩出しながら、プロ入りする選手は出なかった。
投手で出色だったのは、1981年、春季リーグ戦だけで5勝をマークし、「赤門旋風」と呼ばれる躍進を担ったエースの大山雄司だ。また、翌1982年には、後にNHKのニュースキャスターとして活躍する大越健介が新人戦で東大を決勝戦に導く好投。1983年には東大野球部史上初となる日米大学野球選手権の代表メンバーに選出された。
また、1984年秋には、立迫浩一が東大野球部史上6人目となる首位打者を獲得。80年代前半の東大野球部は投打ともに実力者が顔を揃え、他の5大学(つまり、甲子園経験者ばかりの野球エリートたち)と熱戦を繰り広げた。
ただ、こうした面々もプロへは進まず、アマチュアでその球歴を終えている。
東大出身者として3人目のプロ入りを果たしたのが1991年のドラフト8位でロッテに指名された小林至だ。小林のプロ入り時、物議を醸したのが「六大学通算0勝12敗」という戦績だ。大学で1勝もしていない投手のプロ入りが「話題先行」と波紋を呼ぶのは当然だった。実際、現役2年で一度も1軍登板機会のないまま、現役を引退している。
4人目の東大からの刺客は、1999年ドラフトで日本ハムから7位指名を受けた遠藤良平。六大学通算8勝(32敗)は平成以降では東大最多勝だ。また、当時「六大学本塁打記録」を更新した慶應義塾大の高橋由伸(現・巨人監督)を9打数2安打に抑えるなど「由伸キラー」として評価が高かった。もっとも、プロではそのキラーぶりを発揮できず、2年目の消化試合で1試合だけ1軍登板し、現役引退している。
東大出身者として5人目のプロ野球選手が松家卓弘。東大で3勝17敗の戦績を残し、2004年のドラフトで横浜ベイスターズから9巡目で指名された。横浜で5年過ごした後、日本ハムに移籍。その後12年シーズンオフに戦力外通告。1軍で14試合に登板したものの、プロ8年間で未勝利(0勝1敗)に終わっている。