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マスコット界のパイオニア、島野修が歩んだ道(後編)

 阪急ブレーブスのマスコット「ブレービー」の“中の人”として活躍し、マスコット界に革命をもたらした島野修。阪急がなくなり、オリックスに球団が変わった後、島野のマスコット人生はどのような変貌を遂げたのか? その生き様を象徴する印象的な言葉とともに振り返える集中連載、最終回。

僕の代わりは、誰にもできないよ


 1988年秋、阪急はオリックスへの身売りを発表。球団名は「オリックス・ブレーブス」に変わったが、マスコットはそのまま「ブレービー」が継続使用された。ところが2年後の1991年、本拠地を大阪から神戸に移し、「オリックス・ブルーウェーブ」と名称変更するのに伴い、マスコットもギリシャ神話の海神ネプチューンをモデルにした「ネッピー」に一新されることになった。

 幸いなことに、外観や名前が変わっても“中の人”は変わらず、島野修のまま。だが、約10年に渡って過ごした「ブレービー」から変えなければならない点は多かった。

 たとえば背番号。ブレービー時代は「年間100勝を目指して」の願掛けで「100」だったが、ネッピーでは「マスコットNo.1、リーグ1位、日本一」という三つの「1」を掛け合わせた「111」が採用された。

 また、着ぐるみの重さは10キロから12キロに、試合中のパフォーマンスもバイクから四輪バキーに変わった。ブルペンのマウンド傾斜を利用してジャンプするパフォーマンスが人気を呼んだが、視界の悪い着ぐるみのままで決行するバギージャンプは、想像以上の恐怖と体へのダメージを蓄積していった。

 実際、1994年のオールスターゲームではジャンプに失敗し、肋骨を3本折った。それでもネッピーと島野は試合を休まなかった。

「僕の代わりは、誰にもできないよ」

 そう言って、公式戦再開後もサポーターで胸を補強し、コルセットで締め付けて強行出場。その他、足を捻挫してもテーピングで固めて、たとえ40度の高熱が出ても、決して試合を休まなかった。過酷な労働環境のため、はじめてブレービーの中に入った時と比べて、10キロ以上も体重が落ちていたという。

 そんな島野の努力と節制の日々が、ある大記録を生み出すことになる。

島野さんをはじめとする、裏方の人たちがいるからこそ


 満身創痍になりながらも、ブレービー時代から1日も休まず球団主催試合に出続けた島野は、1996年6月15日、マスコットに入った男として前人未到の1000試合出場を達成した。年間65試合出場を16年間続けたことによって成し遂げた大記録だった。

 その日はオリックス主催の札幌での試合だったため、チームが本拠地のグリーンスタジアム神戸に戻った最初の日曜日に表彰式が行われた。

 イチロー(現マーリンズ)のシーズン200安打達成時など、いつもは球団を代表して「花束を渡す」役だったネッピーと島野。だが、この日だけは「花束をもらう」立場になった。そして、チームを代表してイチローが挨拶をした。

「島野さんをはじめとする、裏方の人たちがいるからこそ、僕たちは一生懸命に野球をすることができます。これからも、ファンの皆さんに野球を楽しんでもらうため、頑張ってください。お願いします」

 球場に詰めかけた観客から大きな拍手が沸き起こった。普段は脇役であり、盛り上げ役であるネッピーが、はじめて「主役」になった日だった。

 それから3カ月後の9月23日。イチローの劇的なサヨナラ二塁打でオリックスは前年に続いてのパ・リーグ制覇を達成。前年は叶わなかった本拠地での胴上げとなったため、ネッピーもその歓喜の輪の中に加わることができた。

 さらに1カ月後の10月24日、今度は日本シリーズで島野にとっては古巣でもある因縁の巨人を破り、悲願の日本一を達成した。場所はまたしてもグリーンスタジアム神戸。ネッピーは三度、グラウンドで涙を流した。背番号「111」の由来でもあった「マスコットNo.1、リーグ1位、日本一」を全て成し遂げる、忘れられないシーズンとなった。

 島野はその2年後の1998年、48歳のシーズンまでネッピー役を務め上げ、マスコットとしての現役生活に別れを告げた。通算出場試合数は1175試合を数えた。

いまのマスコットブームは島野にあり


 その後もオリックスの球団職員を務めたが、病気療養を機に退職。そして2010年5月8日、脳出血のため兵庫・西宮市内の病院で死去した。59歳だった。

 また、島野が育て上げた「ネッピー」も、島野の後を追うように2010年限りで勇退。2011年シーズンからはバファローベル&バファローブルの兄妹マスコットに様変わりした。

 マスコットを取り巻く環境もここ数年で激変した。どの球団でもマスコットのイベントが増え、限定グッズが人気を博し、本やDVDを発売するのも当たり前になった。だが、それもこれも、野次を浴び続けながらも試合に出続け、マスコットの存在を世に知らしめた島野修の存在があったからこそだ。

 マスコット人気がますます高まりを見せつつある昨今、我々野球ファンは、その礎を築いた男の生き様を、後世に語り継いでいかなければならない。裏方の存在があるからこそ、プロ野球は光り輝くのだ。

※参考文献
『ドラフト1位 九人の光と影』(澤宮優/河出文庫)
『それゆけネッピー! プロ野球マスコットにかけたゆめ』(花木聡/くもん出版)



■ライター・プロフィール
オグマナオト/1977年生まれ、福島県出身。広告会社勤務の後、フリーライターに転身。「エキレビ!」、「AllAbout News Dig」では野球関連本やスポーツ漫画の書評などスポーツネタを中心に執筆中。『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』(新紀元社)では構成を、『漫画・うんちくプロ野球』(メディアファクトリー新書)では監修とコラム執筆を担当している。近著に『福島のおきて』(泰文堂)。Twitterアカウントは@oguman1977(https://twitter.com/oguman1977)

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