高橋由伸と上原浩治、といえば、2000年代巨人のエースと主砲、というイメージが強い。だが、実はそれ以前にも同じユニフォームを着て、日本球界に大きな足跡を残している。
まずは1997年6月に開催された第26回日米大学野球選手権大会。この大会直前に東京六大学野球史上タイの通算22本塁打を放っていた高橋由伸は、大学日本代表の主軸打者としてチームを牽引。
一方の上原も第3戦の先発マウンドにのぼり、見事に勝利投手に。4勝1敗でアメリカ大学代表を倒す原動力となった。
するとその2カ月後、二人はスペイン・バルセロナで行われた第13回IBAFインターコンチネンタルカップに、全日本の一員として出場する。WBCなどなかった時代、五輪以外ではもっとも権威ある大会が「インターコンチネンタルカップ」だった。そしてこの大会で、伝説として語り継がれているのがキューバとの決勝戦だ。
当時のキューバは「世界最強」といわれ、インターコンチネンタルカップは7連覇中。8連覇を目指したこの大会でも無敗で決勝までコマを進め、連勝記録は151まで伸ばしていた。
そんな「絶対王者」と決勝で対戦した日本。予選ラウンドでは大敗を喫した相手を攻略すべく、先発マウンドを任されたのが上原。そして、4番を務めたのが高橋由伸だった。
果たして、4番・由伸は決勝点となる3点本塁打や2点三塁打を放つなど5打点を記録。投げては上原が5回1/3を投げ1失点。キューバを破り、日本が12大会ぶりの優勝を成し遂げた。
上原はこの大会の最優秀投手賞を受賞。上原と高橋の二人は、キューバを破った男、として世界から注目を集めたのだ。
代表チームでの共演としては、2004年のアテネ五輪にも日本代表メンバーとして出場した二人。上原は2試合に投げ1勝。高橋はチームトップタイの3本塁打を放ち、日本に銅メダルをもたらしている。
巨人時代の二人の交錯については今さら振り返るまでもないだろう。1999年と2003年にはともにセ・リーグのゴールデングラブ賞を受賞。2000年代前半、巨人の顔であり、球界の顔を務めたのがこの二人だった。
では、上原が巨人を離れ、メジャーに移籍した後の関係性は?
「その後」の二人の交錯を見ていこう。
レッドソックスを世界一に導き、上原自身もリーグ優勝決定シリーズでMVPを受賞するなど、激動のシーズンとなった2013年オフ。上原は自ら主催する復興支援活動「恩返し夢教室」で福島県南相馬市を訪問した。
このとき行われたトークショーにおいて、上原は「成長する上ではライバルの存在が大切」と訴え、自身のライバルとして挙げたのが高橋由伸だった。
《「同級生が現役で活躍していると刺激になる。仲間であり、ライバル。由伸は野球もうまくて格好良いからむかつく」と会場の爆笑を誘った》(スポーツニッポンより)
すると翌2014年11月には、石巻での「恩返し夢教室」に高橋由伸がゲスト出演。巨人時代にも記憶がないというキャッチボールを披露した。
また、2015年と2016年オフには、それぞれが主催する野球大会「上原浩治杯」と「高橋由伸杯」の勝利チーム同士が戦う「上原浩治杯×高橋由伸杯“ドリームマッチ”」を開催。第2回となった昨年12月の試合前には、エキシビションとして、上原浩治対高橋由伸の1打席夢対決が実現した。
結果は、初球ファールの後、高橋“監督”が現役メジャーリーガーからクリーンヒット。上原は「現役に戻れるよ」と笑い、ファンもうなずくばかりだったが、誰よりも「現役復帰」を待望しているのが、同級生の上原なのかもしれない。
監督2年目としてペナントレースに臨む高橋由伸。そして、42歳にして新天地カブスでの勝負に挑む上原浩治。同級生コンビの戦いぶりを、誕生日を機にあらためて注目してみてはどうだろうか。
最後に余談だが、4月3日は阪神監督の金本知憲(1968年)、巨人の澤村拓一(1988年)、ソフトバンクの武田翔太(1993年)も誕生日だ。これほど個性派が揃うのは珍しく、スター選手の特異日、といえるかもしれない。
(※上原浩治の写真はレッドソックス時代のもの)
文=オグマナオト