島根・江の川高(現・石見智翠館高)で、強打の捕手として鳴らした谷繁元信。高校通算42本塁打に加え、甲子園ベスト8の実績を引っさげてドラフト1位で横浜大洋(現・DeNA)に入団した。1988年の秋、まだ元号が昭和(63年)の出来事である。
超高校級の実力を持つ谷繁は、ルーキーイヤーから1軍でプレーし続けた。自慢の強肩で並みいる俊足ランナーを刺し、盗塁阻止率は4割超えをしばしば記録。周囲からはこのまま正捕手の座を確保するように見られ、現に本人も「それなりにやればレギュラーを獲れる」と踏んでいた。
しかし、当時の谷繁には必死さ、ガムシャラさが足りなかった。それを当時の守護神・佐々木主浩に見抜かれ、スタメンで出場しても試合終盤にはベンチに下げられることが続く。佐々木は、自らの武器であるフォークを、身を挺して止められないことに不満を持っていた。
「ワンバウンドを止められるようになれば使ってもらえる」と一念発起した谷繁は、地道な捕球練習を毎日繰り返し行うことで弱点を克服。努力を認めた佐々木をはじめとする投手陣の信頼を集め始めると、球団名が横浜ベイスターズに変わった93年に自身初の100試合出場(114試合)を果たした。
若き日の谷繁にとって、大矢明彦との出会いは外せない。かつてヤクルトを初優勝に導いた名捕手の手ほどきで、インサイドワークがメキメキと上達。最初はバッテリーコーチ、1996年以降は監督として大矢は谷繁を鍛え上げた。
鍛錬の例として、自分の目の前を歩いている人が左右どちらに動くのか考えさせた。その人の身なりや雰囲気はどうか、1人で歩いているのか複数で歩いているのか。あらゆる要素を加味して、判断を下す。捕手として欠かせない洞察力をこのトレーニングで身につけ、谷繁は年を追うごとに自らのスタイルを確立していった。
それが結実したのは、大矢が去った翌年の1998年。ベイスターズが38年ぶりのリーグ優勝、日本一を達成したのだ。この年自身初のゴールデングラブ賞&ベストナインを獲得すると、翌1999年には一流の証でもある年俸1億円を突破。名実ともに球界を代表する捕手に成長した。
2001年オフ、谷繁はメジャー挑戦という大きな決断をする。野手ではイチロー(マーリンズ)と新庄剛志(元阪神ほか)がまだ1年目を終えてばかりで、日本人捕手としては初の快挙に挑んだ。しかし、複数球団に向けたワークアウトで好条件を得られず、渡米は断念。結局、山田久志監督(当時)のラブコールに応える形で、中日への入団が決まった。
転機が訪れたのは、山田の後任に落合博満が指揮官に就任した2004年のこと。30台半ばを迎えた谷繁に対し、落合は「そんなにのんびりとしていいのか」と煽ったのだ。最初から不動のレギュラーに座るのではなく、実力でしっかりとポジションを確保しろ――。
もちろん谷繁は良い気分はしなかっただろうが、これで持ち前の負けん気に火がついた。落合が指揮を執った8年間でチームは4度のリーグ優勝、2007年には53年ぶりの日本一を達成。そのいずれも谷繁は絶対的な正捕手として、守り勝つ野球を支え続けた。ちなみに落合は、自らの退任会見で「この8年間で一番成長したのは谷繁」と明言している。
連続シーズン本塁打記録更新、史上最年長(当時)での2000本安打達成など、2012年以降は数々の金字塔を打ち立てた。2014年からは球団59年ぶりの選手兼任監督に就任。かつて共に戦った落合もGMとして復帰し、黄金タッグ再びとなった。
2015年7月28日には、通算3018試合目の出場。野村克也の持つプロ野球記録を35年ぶりに更新し、谷繁は球界で最も多くの試合を経験したプレーヤーとして名を刻んだ。その後およそ2カ月が経った9月半ばに、稀代の名捕手は現役引退を表明。最後の出場はかつての本拠地・横浜スタジアムでのDeNA戦だった。
来季からは監督専任として、強竜軍団を率いる。指揮官になってからのチームは4位、5位と低迷。世代交代の過渡期とはいえ、人一倍負けず嫌いの谷繁にとっては悔しさしか残っていないだろう。しかし、これまで何度も挫折から立ち上がってきた男だ。忸怩たる想いのまま終わるなんて、ありえない。