大田が初めて注目を浴びたのは高校3年の春。帝京高のエースとして乗り込んだ選抜大会1回戦で、1試合20奪三振の快投を見せた。これは昭和の怪物・江川卓(元巨人)も達成した大記録。大田も江川と同じく右の剛腕だったことから、将来を嘱望されたのは言うまでもない。
横浜(当時、現在はDeNA)に入団後は「阿斗里」の登録名でプレー。高卒1年目から1軍で先発を任され期待を受けるも、なかなか結果を残せず。5年目までに通算27試合に登板する一方、1勝も挙げることなくその間に10連敗を喫してしまう。もう1敗すると、NPB史上ワースト記録に並んでしまうところまで来ていた。
迎えたプロ6年目、大田は登録名を本名の「大田阿斗里」に戻す。心機一転を図ったのが奏功したか、6月22日の阪神戦で悲願のプロ初勝利をマーク。1回1/3を無失点に抑え、デビューからの連敗記録を10で止めた。
筆者は偶然この試合を観ていたのだが、そのマウンドさばきは選抜大会を思い起こさせるかのような、堂々たるものに感じた。また、冒頭のコメントが出たのもこの時。ヒーローインタビューに答え慣れていない初々しい様子は、今でもよく覚えている。
結局6年目の2013年は38試合に登板し、2勝5ホールド、防御率3.72とリリーフとして及第点の結果を残す。
しかし、翌年からは1軍でその姿を見ることはほとんど無くなり、昨季限りで戦力外通告を受けた。それでも大田はまだプロの世界でやり残したことがあったのか、合同トライアウトで最速149キロをマーク。一時はサンディエゴ・パドレスとのマイナー契約の報道がなされるなど、周囲も慌ただしく動いていた。
2016年2月、大田はオリックスのキャンプ地・宮崎にいた。1月に行われた神戸での入団テストで好感触を得た球団側が、テスト実施継続を望んだのだ。
寒風吹きすさぶファームのキャンプに合流した大田は、半袖のアンダーシャツ姿でアピール。ブルペンでは持ち前の剛速球に加え、切れ味鋭いスライダーなどの変化球を披露した。
チーム本隊とほぼ別行動で、孤独な闘いを強いられるなか、必死にその腕を振った。
そして9日の紅白戦で登板のチャンスを得ると、2イニングを無失点に抑える好投。試合終了後に球団から「育成契約を結ぶ意向」の発表があり、大田のもとに吉報が届けられた。
瀬戸山隆三球団本部長は「上の戦力になる可能性を感じた」と右腕を評価。当面の目標は支配下復帰を果たすことだろう。
近いうちに京セラドーム大阪、ならびにほっともっとフィールド神戸のマウンドで躍動する大田の雄姿を見られる日を楽しみにしたい。
文=加賀一輝(かが・いっき)