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◆第二回/ベーブ・ルースと戦った選手が生きていた!

 いったい、この二人は誰なんだ? 
 当コーナーのタイトルが入った古そうな写真を見た途端、多くの方がそう思われたのではないでしょうか。

 向かって左が、苅田久徳さん。右が水原茂さんです。もちろんどちらもプロ野球選手だった方で、苅田さんは法政大時代から名二塁手として活躍。水原さんも慶應義塾大時代から内野手として名を馳せ、東京六大学のスター選手でした。

 では、なぜこの写真を採用したかというと、僕は14年前に苅田さんにインタビューしていて、それが「伝説のプロ野球選手に会いに行く」はじまりだったからです。

 そこで今回は苅田さんのことを書きたいのですが、その前に、水原さんと2ショットになっている意味をお伝えしたいと思います。
 というのは、お二方とも、現在のNPBに連なる日本のプロ野球誕生に大きく関わっているのです。

 1934(昭和9)年、「ベーブ・ルース一行」と呼ばれたMLB選抜チームが来日したとき、対戦相手として全日本軍が結成されました(全日本軍とは、今でいえばWBC日本代表のようなものです)。

 この全日本軍に、苅田さん、水原さんともに参加。メンバーのなかには[伝説の名投手]沢村栄治もいて、この沢村がルースをはじめMLBの強打者たちをキリキリ舞いさせたことは有名です。そして、この全日本軍がのちに、大日本東京野球倶楽部というプロフェッショナル球団になったことをきっかけに、日本のプロ野球が誕生したのでした。

 大日本東京野球倶楽部は、翌35(昭和10)年、チームを強化するためにアメリカ遠征に出かけます。さすがにMLBとの対戦はかなわず、マイナーやセミプロなどを相手に各地を転戦したのですが、その途上、チーム名を「東京ジャイアンツ」=巨人に改称。

 ここでもう一度、写真を見てみてください。アメリカ遠征にも参加して巨人の一員になった水原さんのユニフォームの胸には、GIANTSの文字があります。しかし、苅田さんは違うユニフォームを着ている。なぜなら、遠征から帰国後に諸事情あって巨人を退団、東京セネタースという球団に入ったからです(セネタースについては、また別の回で説明します)。

 苅田さんは2001年、90歳で天寿をまっとうされましたが、僕がインタビューをする機会に恵まれたのはその3年前。野球雑誌で日米野球の特集を組むことになり、ベテラン編集者の方から、「ベーブ・ルースと戦ったこともある苅田さんに会いに行ってみたら?」と助言されたのでした。

 なにしろ野球人の取材は初めてで、知識も少なかった。大変不謹慎ながら、ベーブ・ルースと試合した選手がまだ生きている、ということにすごく驚いたものです。

 それで苅田さんのことを文献で調べてみると、どの文献を読んでも意外で面白いエピソードばかりが出てくる。
 たとえば、「プロ野球で初めて退場させられた」とか、「プロ野球で初めて隠し球をやった」とか。あるいは、「その守備を見るために会社をずる休みした人がいた」とか「横浜生まれで、粋なハマっ子プレーヤーとしてモテた」なんて一文が出てくると、なんとかして映像を見たくなったものです。
 今ではほんのわずかな時間、動く苅田さんをネット上で観ることはできますが、当時はなかったですから。

 次回、実際に苅田さんに会いに行った顛末から、初めての原稿を形にするまでをお伝えしたいと思います。

※苅田久徳さんの写真はベースボールカードです。



文=高橋安幸(たかはし・やすゆき)/1965(昭和40)年生まれ、新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。雑誌編集者を経て、野球をメインに仕事するフリーライター。98年より昭和時代の名選手取材を続け、50名近い偉人たちに面会、記事を執筆してきた。10月5日発売の『野球太郎』では、板東英二氏にインタビュー。11月下旬には、増補改訂版『伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』が刊行される(廣済堂文庫)。ツイッターで取材後記などを発信中。アカウント @yasuyuki_taka

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