キャンプでまず注目を集めるのが新戦力。ルーキーや移籍組ももちろんだが、外国人選手というのも目玉となる。かつて、キャンプで話題となった外国人選手たちを集めてみた。
いまでこそ常勝軍団「福岡ソフトバンクホークス」として名前が知れ渡っているが、1989年は関西の鉄道会社が経営する「南海ホークス」から、流通大手の「ダイエーホークス」に球団名が変わり、福岡へ移ってきた初年度。前年まで11年連続Bクラスだったチームに目玉がほしい、と考えた球団が、白羽の矢を立てたのがウィリー・アップショーだ。メジャー10年間で1103安打を放ち、年間27本塁打を記録したこともあった正真正銘のメジャーリーガー。当然、周囲の期待も高く、一挙一動が注目された。ファンを満足させるパフォーマンスを披露したのが、キャンプでのフリーバッティングだった。
ハワイのカウアイ島で行わたダイエーの春季キャンプ。合流2日目に早くも10本のフェンスオーバーで驚かせ、翌日には150メートル級の超特大弾をぶっ放した。その打球で、球場近くに停めてあった車が破壊されたと言われている。持ち主が偶然にも自動車修理工場のオーナーだったことで事なきを得たが、そのパワーに、首脳陣も4番打者としての活躍を確信していた。
求めるものが高かっただけにギリギリ及第点レベルといえる打率.255、33本塁打、80打点という数字を残した1年目。しかし、「外国人あるある」とも言えるワガママぶりが顔をのぞかせ始め、全体練習を欠席することもしばしばだった。シーズン終盤には、死球に激高して乱闘騒ぎに発展し、そのときに指を骨折。最終戦を待たずして帰国してしまう。
翌年は、開幕から調子が上がらず、外国人枠の問題もあって出場機会が激減。そのままフェードアウトするような形で退団していった。
横浜在籍8年で通算打率.325。首位打者や打点王、最多安打などのタイトルも獲得し、ベストナインに選出されること6回。1999年には153打点という日本球界歴代2位の記録を叩き出したこともあるロバート・ローズ。ベイスターズファンならずとも、その名前は記憶していることだろう。
そんな最強クラスの助っ人が、年俸交渉の不調で横浜を退団したのが20000年オフ。その後は、子どもが通う高校の野球部でコーチをするなどして過ごしていたという。
そこに目をつけたのがロッテだった。長らく優勝から遠ざかっていたこともあって、山本功児監督自らアメリカまで出向いて状態をチェック、2年間のブランクがあっても戦力になることを確認し契約にこぎつけたのだった。
当時、鹿児島の鴨池野球場で行われていたキャンプにも日本人選手と同じ2月1日から合流する優等生ぶり。フリーバッティングを始めれば62スイングで15本の柵越えを放つなど、全盛期と変わらぬ打棒を披露し、シーズンでの活躍を大いに期待させた。
ところが、実戦形式に突入した途端に暗雲が立ち込める。紅白戦では3試合8打席でノーヒットという結果に、一気に自信を失うローズ。そこに、千葉の本拠地球場近くに残してきた家族が新たな土地になじめず不安を訴えていたことも追い討ちをかける。
結局、オープン戦すら出場することなく退団が決定。成田空港での会見では、
「日本は大好きだが、もう野球をやりに来ることはないだろう」
と沈んだ表情で語り、そのまま帰国してしまった。
現在はアメリカのテキサスレンジャーズ傘下のハイデザート・マーベリックス(A+)でバッティングコーチを務めているという。
わずか2年間(1997−1998年)の在籍だったが、鮮烈な印象を残したのが、ヤクルトのデュウェイン・ホージーだ。
メジャー在籍2年間で52試合に出場し40安打で退場3回ながらも、俊足強肩でシュアな打撃を誇るワイルド系というふれこみだったホージー。しかし、アメリカ・ユマでのキャンプに合流してみると、バッティングは大ざっぱで、守備、スローイングもまるでダメ。
しかも、熱があると練習をサボっては夜遊びに精を出すという、あまりにもベタ過ぎる「害人選手」だった。球団はその時点で解雇の検討を始めたほど。
ところが、立場の危うさを感じ取ったホージーは、ようやく本腰を入れ始める。コーチの指示を聞き入れスイング改造にも取り組み、オープン戦に入ってからは、相手投手の特徴やクセを詳細にメモっては次の対戦に役立てるなど、地道な努力も欠かさなかった。
そして、シーズンが始まると、6番レフトで開幕スタメンの座をゲット。そこから周囲の予想をはるかに超える大活躍を見せた。全試合に出場し38本塁打。松井秀喜(当時巨人)を1本差で上回り本塁打王のタイトルを獲得するだけでなく、100打点、20盗塁と、チームの優勝に大きく貢献したのだった。
翌年は各球団に研究されたこともあって、成績が急落。2年間で日本球界を去ることになってしまったホージーだったが、とてつもなく陽気な性格でファンにも愛された選手だったことは最後に記しておきたい。
■ライター・プロフィール
藤山 剣/1970年生まれ。元高校球児(軟式)。出版社勤務を経てフリーに。多くの野球関連の書籍や雑誌の制作だけでなく、他に情報誌や競馬誌にも携わる。