前回、「伝説の決勝に導かれた中学生」
チャンピオンチーム・日本ハムが1位で獲得した高校生を「外れ外れ1位」と言うべからず。高校野球史に残る伝説の決勝戦に導かれた少年は「憧れのエース」の背中を追い、最速150キロ左腕へと変貌した。
広島新庄を率いるのは、広島高校野球ではおなじみの迫田守昭監督だ。1979年には三菱重工広島を率いて都市対抗野球で初出場・初優勝の快挙を成し遂げ、2000年秋に母校・広島商の監督に就任。2002年春、2004年夏の2度、チームを甲子園に導いている。2007年秋に広島新庄の監督に就任すると、2014年春に学校初の甲子園出場をもたらし、広島新庄は広島の強豪戦線に名乗りを上げた。
堀の2学年上には今春の東都リーグ1部で防御率3位の成績を残した山岡就也(國學院大2年)もおり、迫田監督といえばミドルサイズ左腕の育成に長けている印象がある。田口が170センチ、山岡が173センチ、堀は2人より少し大きい177センチだ。
山岡と堀は特に経歴も重なる。山岡も中学時代は地元中学校の軟式野球部に所属。中学3年時は公式戦で1勝もできないほど無名の存在だった。その山岡は広島新庄でエースとなり、2014年春、チームを甲子園初出場に導いた。
田口に憧れて広島新庄に入った堀も入学半年後に主戦投手となり、1年秋の広島県大会で5戦連続完投、44回4失点で優勝。そこには卓越した育成メソッドがあるのではないだろうか。1年秋の飛躍までの道を堀に聞いた。
「実はコレを教わったというのはあまりないんです。迫田監督からは『しっかり走りこめよ』と。練習試合に連れていってもらえるようになって、1年夏もベンチに入れてもらえたんですが、正直、どこが目に留まったのかはわかりません」
驚くほどにスルスルと、実感すら湧かないままエースに成長していったのだ。まさに天然素材。本人すら気づかないうちに迫田監督はダイヤの原石を見出していたのだろう。飛躍の要因を挙げるとすれば、硬式球へのフィットだ。
「軟式は投げる時にボールが潰れる感覚があって投げづらかったんですけど、硬式は潰れなくて投げやすかったです」
1年秋に計測された球速は138キロ。順応と成長は数字に現れていた。
1年秋の抜擢で1試合を投げ抜くスタミナのなさを実感し、冬の間は走りこみに力を入れた。広島県といえど、広島新庄がある北広島町は県北に位置し、冬は雪が積もる。スキー場があるほどだ。雪の上を長靴を履いて走りこんだ堀はさらに実力を伸ばし、2年夏には広島大会を制し、甲子園に乗り込んだ。初戦では霞ヶ浦を相手に9回2失点完投勝利。大会前から注目を集めていた綾部翔(DeNA)に投げ勝っている。ピンチでも白い歯をのぞかせ、堂々としたピッチング。聖地を楽しんでいるように見えた。しかし、本人の心中は違った。
「夢の甲子園のマウンドに立てて嬉しかったんですけど、内容は最悪でした。ストレートも変化球もまったくダメで…。立て直そうとしたんですけどうまくいかなくて、ずっとイライラしてました」
その中でも勝利をつかみとった堀だが、次戦では清宮幸太郎擁する早稲田実に打ち込まれ、4回途中3失点で降板。
「先輩たちに申し訳なくて…」
大舞台での緊張か、悔しそうに唇を噛みしめた。
(※本稿は2016年11月発売『野球太郎No.021 2016ドラフト総決算&2017大展望号』に掲載された「30選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・落合初春氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)