分厚い選手層を誇るソフトバンクが将来のエースの座を託すべく、今ドラフトの目玉を1位指名。「投球」のすべてに卓越した美しき快腕を3年間見続けた岐阜在住のライターが、平坦ではなかった道程を振り返る。
どこから見ても高橋純平、ドラフト1位水準である。
素材は抜群だ。身長183センチのスラリとした投手体型。長い腕を上から大きく振り、角度のある150キロ超のストレートを投げる18歳などきわめて稀。高い将来性を感じさせる。
一方で、高卒ながら即戦力としての要素を兼ね備えているという評価もある。スライダー、スプリットなど変化球が高精度で制球にも破綻がない。打者との駆け引きや投球術にも長けている。
本誌でも高橋を追い続けてきたが、『ドラフト総決算号』としてあらためて高橋の3年間を振り返る。今回は、筆者がこの期間に見てきた計17試合の県岐阜商のゲームをもとに、プロ球団スカウト陣の動きや、その時々の本人コメントも織り交ぜながら、各時点で逸材を取り巻いていた状況を思い起こしていきたい。
筆者が初めて高橋を見たのは1年春、県大会の決勝だ。既に公式戦デビューを済ませて評判になっていて、この日も大垣日大を相手にリリーフで4回1失点と好投。チームの優勝に早速貢献した。球に力が乗ったときのストレートはすばらしかったが、145キロ(同日に自軍スピードガンで計測)という球速数字ほどのインパクトはまだ感じられなかった。とはいえ、3月までは中学生。体を大きく使うフォームにあどけなさを残しつつも、将来ドラフト候補になるのは間違いないと思わせた。
中学時代は揖斐本巣ボーイズに所属していた。同チームは村山賢輔(愛工大/愛工大名電で高校通算35弾)を輩出しているから、さすが強豪チーム出身と思いきや、後に高橋に聞くと「僕の代は弱かったです。自分は中学3年時に県選抜に選ばれたので他チームの選手とも仲良くなりましたが、それまでは大会序盤で負けてすぐ帰っていたので、試合の合間などに他チームの選手と話をする機会もなかったくらいです」という。
1年夏は左足甲疲労骨折で出番がなく、次に見たのは1年秋の県大会2回戦・関商工戦だった。背番号1を背負い先発したが5回3失点で敗退。打者にストレートを合わされた。本人は「ピンチの場面やクリーンナップ相手に力んでしまいました。力んでもストレートは速くならないとこの試合で気づきました」と振り返る。
1年生の高橋に影響を与えたのが、当時3年生のセンバツ8強左腕・藤田凌司(立教大)との出会いだ。エースの何たるかを感じるとともに、「頑張りすぎないことも大事。無理して一日でやり尽くすのではなく、長続きさせるためにはほどよく終えることも必要」(高橋)という心得も学んだ。
2年春、まずは地区大会を途中まで見たが、以前より成長しているように映った。立ち姿がカッコよくなり、腕の振りも幾分スムーズになった。4月後半の県大会準決勝では試合後、「冬にたくさんお米を食べて、73キロだった体重が76キロになりました。下半身もつくっています。体を一旦丸くしたので、夏に向けて体のキレを上げていきたい」と語っている。早くも、記者陣による試合後の囲み取材が常となっていた。
ただ、ここから「何をしても打たれ、何をしてもうまくいかなかった」と高橋が思い悩んだ停滞期に入る。過去に経験したこともない「腕を振ってもストライクゾーンに球がいかない」状態に陥った。先述の県大会準決勝でも押し出し四球を許したのはその予兆か。本格派投手に多少の制球難はつきものだが、夏を前に深刻化した。
不調を脱したのは、高橋が憧れて入学した当時の監督・藤田明宏氏(現朝日大監督)の指導があったからだ。フォームを修正したほか、「今このままではプロは無理だ」という師の言葉が、逸材のモヤモヤを振り払った。
2年夏は、大垣日大に負ける前の一戦(準々決勝)を見た。「体に力感がない状態から、前で(腕を)振る」という“脱力”をマスターしバランスも良化。この頃から、スカウトも高橋注視に本腰を入れだす。対戦カードの兼ね合いもあるとはいえ、この日は中日、広島、日本ハム、ソフトバンクが視察に訪れた。特に岐阜県在住で、高橋を中学時代から知る熊崎誠也スカウト(日本ハム)は「今の時点でドラフトにかかってもいいレベル」と早々に“プロ当確”を出している。
次回、「一気に本格化した2年秋」
(※本稿は2015年11月発売『野球太郎No.017 2015ドラフト総決算&2016大展望号』に掲載された「32選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・尾関雄一朗氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)