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第5回 「物議を醸す個人タイトル争い」名鑑

「野球なんでも名鑑」は、これまで活躍してきた全てのプロ野球選手、アマチュア選手たちを、さまざまな切り口のテーマで分類し、テーマごとの名鑑をつくる企画です。
 毎週、各種記録やプレースタイル、記憶に残る活躍や、驚くべく逸話……などなど、さまざまな“くくり”で選手をピックアップしていきます。第5回のテーマは、「物議を醸す個人タイトル争い」名鑑です。

 クライマックスシリーズが導入されて消化試合が減ったから? レギュラーシーズン終了から日本シリーズまでの微妙なインターバルがなくなったから? 個人タイトル争いが話題になる期間が短くなったように感じます。少し前まで、独走チームが出たシーズンは、当該チーム以外のファンは何らかのタイトルに絡めそうな選手に期待をかけ、チームもその選手を全力でサポートしていた印象があります。CS出場という目標が、個人タイトル獲得に力を注ぎにくい環境をつくっている……のかもしれません。とはいっても、選手にしてみれば絶対にこだわりたいことには変わりない「個人タイトル」を巡るエピソードを残した選手を選んでいきます。

1982年 田尾安志(中日)


 1975年、同志社大からドラフト1位で中日に入団した田尾は4年目にはレギュラーを獲得し、6年目には初の打率3割を記録。そして脂の乗り切った7年目(82年)、田尾は3割5分という高打率で10月18日の大洋とのシーズン最終戦を迎える。チームは勝てば優勝、自身も9毛差に迫っていた長崎啓二(大洋・名前は当時)を抜いての首位打者獲得を懸ける重要な試合となった。しかし、この年5位が決まっていた大洋の首脳陣は、リーグ優勝が関わる試合ながら長崎を出場させず、田尾を徹底して敬遠。勝敗よりも球団初の首位打者誕生を優先させた。田尾は4度歩かされ、その甲斐もあってチームは7回までに8点を奪い、ほぼ試合を決めた。しかし、8回表の第5打席目でも大洋ベンチは敬遠を指示する。田尾は3ボールからボール球を2回スイング。大洋のアンフェアなやり方に反発した。この年、田尾が放った174安打はキャリア最高、当時表彰はなかったがリーグ最多安打でもあった。しかし、田尾は結局この年を超える成績を残せないまま、首位打者も獲ることなく引退している。

[田尾安志・チャート解説]


大洋への批判が集まり、同時に田尾への同情が集まった。2度のスイングは「曲がったことが嫌い」な田尾のイメージに。後に球団との確執を繰り返した割にヒール扱いされる目には遭わずに済んだのは、このイメージも影響していそうな気が。批判・幻滅は1。同情・賛同は4。2度の空振りはインパクト大きく、リアクションも4。
チャートは、“タイトル獲得”にまつわるエピソードの登場人物が「批判や幻滅」を生んだのか、「同情や賛同」を生んだのか、当時の世論の温度感。その際とった行動(リアクション)がどの程度印象に残ったかを、それぞれ5段階評価しました。(以下同)

1998年 小坂誠(ロッテ)


プロ入り1年目の1997年、56個の盗塁を記録するも62個を記録した松井稼頭央(西武)にタイトルを阻まれた小坂は2年目も松井と盗塁王を争った。小坂が43個、松井が42個で迎えた最終戦はロッテと西武の直接対決。ロッテは最下位、西武は優勝と対照的な成績が既に決まり、試合はタイトルを懸けた試合となった。互いに1度ずつ盗塁を失敗して迎えた7回、小坂がヒットで一塁に出ると、マウンドの芝崎和広が一塁に牽制球。これが悪送球になる。しかし二盗を狙いたい小坂は離塁せず留まった。すると今度は芝崎が故意に映るボーク。小坂は止むなく二塁へ進んだ。すると今度はショートの松井が二塁ベースに張り付き、小坂のリードを阻む。それでも小坂は三盗を試みたが失敗。直後の西武の攻撃で松井は盗塁に成功し、結局43個で盗塁王のタイトルは2人で分けあう形となった。

[小坂誠・チャート解説]


牽制球の悪送球やボークという「明らかなマイナス行為」が小坂の盗塁を阻んだとされ、打者に対する敬遠などとは別次元の作為(敗退行為)だとして西武は批判を浴びた。もちろん故意で行ったという証明はできないのだが世論の声は厳しいものだった。その一方で、悪送球でスタートを切らなかった小坂側に対してもフェアでないという声も存在した。批判・幻滅が2、同情・賛同は4。小坂は、その後の打席でサヨナラ犠飛を上げ勝利打点を挙げており、それは選手として正しい借りの返し方とも言える。リアクションは5。

2012年 能見篤史(阪神)


今年、セ・リーグの最多奪三振のタイトルを172個で杉内俊哉(巨人)と分けあった能見は、9月29日の試合に完封し、8個の三振奪い杉内に7個差に迫ると、残り4試合のうち3試合に登板し3個、2個、2個と三振を積み上げてタイトルを獲った。2個差でマウンドに登った最終戦は、本来先発予定だったメッセンジャーに替わっての先発。メッセンジャーは10勝目がかかっていたため、能見は長くても勝ち投手の権利がつかない4回までの限定という登板だった。しかし1回に2つの三振を奪い杉内に並ぶとあっさり降板した。和田豊監督は単独トップに立つための続投も許可したが本人が固辞。試合後には「杉内君と肩を並べることができてうれしい」と謙虚なコメントを残した。メッセンジャーに勝利とやはりチャンスを残していた最多奪三振を狙う機会を提供したとも伝えられているが、とことんタイトルに執着する選手がいる中で、能見のスマートな判断は話題を呼んだ。

[能見篤史・チャート解説]


タイトル獲りへの協力してくれた周囲への気遣いある判断、謙虚な言動は個人タイトルを巡るイメージを変えるものでもあった。一方でがつがつと記録を狙わない能見に食い足りなさを感じる人もちらほら。「批判・幻滅」は1、「同情・賛同」は5。記録に対するニュートラルな姿勢はそれ自体が姿勢(リアクション)だが印象は薄いので3。

その他の「物議醸す個人タイトル争い」に絡んだ選手


・松永浩美(阪急・オリックス)
通算1904安打を放ち、生涯打率も.293と高く、首位打者争いの常連だった松永浩美(阪急ほか)。だが88年には高沢秀昭、91年には平井光親(ともにロッテ)との競り合いに敗れ首位打者を逃しており、このタイトルとは縁がなかった。2度のチャンスをつぶしたのは、いずれもロッテの作為ある采配だ。高沢と競った88年は阪急(当時)の最終カードがロッテとの直接対決となり、松永は3試合にわたり11打席連続で歩かされた。10月23日、最終戦最終打席
は外角に大きく外す仁科時成(ロッテ/この日が引退試合)のボールを、バットを放り投げて当てようと試み三振。ベンチに戻ると上田利夫監督と無言で握手。批1/賛4/リ5

・掛布雅之(阪神)と宇野勝(中日)
84年のセの本塁打王を争った掛布雅之(阪神)と宇野勝(中日)。最終カードが直接対決になると37本塁打で並ぶ両者に対し、両軍敬遠を徹底。ともに2試合通じて四球を与え続け、互いに10打席連続四球という当時の日本記録をつくる。宇野には満塁での押し出し四球もあった。結果、タイトルを分けあったが、常軌を逸した出来事にセ・リーグ会長やコミッショナーから「野球協約違反(敗退行為)の疑いがある」と非難。ただ、あくまで非難に留まり、その後も同様のケースは頻発。批5/賛1/リ1

・上原浩治と松井秀喜(ともに巨人)とペタジーニ(ヤクルト)
上原がルーキーイヤーの1999年、20勝目をかけたヤクルトとの最終戦は、41本塁打していたチームメイトの松井秀喜と、42本塁打のペタジーニがタイトルをかける試合でもあった。ヤクルトが松井との勝負を避けたのを受け、巨人ベンチはペタジーニを歩かせるよう上原に指示。これに納得がいかなかった上原は、怒りをあらわにしマウンド上で涙を浮かべた。結局その後の試合で松井は1本塁打したが、2本を積み上げたペタジーニがタイトルを獲った。批1/賛5/リ5

・ローズ(オリックス)
2007年、楽天の山崎武司と打点と本塁打のタイトルを競っていたローズは、8月27日10点差がついた8回表2死二塁から歩かされると怒りを爆発させた。
「バカ、バカ、バカ、ノムラカントク、バカ。コレ、カイトイテ」
まだ残り試合も多い中、いきなりキレたローズ、01年にシーズン本塁打記録(55本)の更新を阻むべく受けた敬遠攻めなど、積もる不満もあったと推測される。この後、恩師・野村克也監督(当時)への非難に反論した山崎とのバトルになった。結局シーズンが終わると故障で途中帰国したローズの42本塁打に対し、山崎は43本塁打を放ちタイトル獲得。シーズン途中の、1打席の敬遠に激怒したローズの言い分も通りかねない僅差の決着だった。批4/賛4/リ4

・吉見一起(中日)
2009年10月3日、セで最多勝争いを演じていた吉見は、5対1とリードした試合の5回、先発のチェンに替わって登板。以降8回までを2失点に抑え16勝目を挙げ、館山昌平(ヤクルト)とともにタイトルを獲得した。2011年にも、18勝目を救援で挙げて最多勝を獲っている。ただ競っていた内海哲也(巨人)も吉見に続いて救援勝利を挙げ追いつき、単独のタイトル獲得とはならず。なお吉見は周囲への感謝の言葉を残している。批4/賛2/リ1

・長野久義(巨人)
今年2012年の10月7日。最多安打をチームメイトの坂本勇人と競っていた長野は、DeNAとの最終戦で3安打を放ち173安打とした坂本に並ばれた。直後、長野に打席が回ってきたところで巨人ベンチは代打・石井義人を送る。長野が二塁に進んだ坂本に見えるように拳を掲げ打撃を称えると、坂本は目には涙を浮かべた。「(坂本)勇人が3本打って一緒に(タイトルを)獲れたらいい」と話していた長野だったが、チームメイトとの競り合いとはいえ、「単独」にまったく固執しない姿勢が新鮮だった。批1/賛5/リ5

 当然ですが、タイトルを狙うための作為的なプレーは、選手個人の判断で起こるものではなく、多くは首脳陣や球団の判断が影響したものだと思います。特にグラウンドで指揮する監督の性格や価値観はかなり反映されているはずです。
 田尾を四球攻めした年の大洋の監督は関根潤三氏。今でこそ温厚なイメージがありますが、かつては「怒らせてはいけないやつ」と知られた、やるときは容赦なくやるタイプの監督。松井に盗塁王を獲らせた98年の西武の監督は「ケンカ投法」の東尾修氏。松永への11打席連続四球を認めたのは、この事件の直前、猛抗議によって「10.19」を演出している有藤通世氏。吉見に最多勝を獲らせた当時の中日の監督・落合博満氏は選手の権利を尊重するタイプで、ギャランティに大きく影響するタイトルにこだわらせたのはある意味一貫しています。
 一方で、闘将・星野仙一楽天監督などは、中日を指揮していた96年、山崎武司が初の本塁打王を松井秀喜(巨人)と争っていても、それをサポートするようなことは嫌がり「お前が打てばいい」と山崎を怒鳴りつけていたといいます(実際は普通に警戒したバッテリーが勝負を避けた様子も)。そして今年、能見の意向に従って1回でマウンドから降ろし、杉内とタイトルを分けあわせた阪神の和田豊監督、長野に代打を送り坂本と「仲良く」最多安打を獲らせた原辰徳監督は、ともに名選手でありながら、タイトルに恵まれていないという共通点があります。「だから固執していない」と見るのは少し短絡的ですが、監督の性格や価値観と物議を醸すタイトル争いの発生頻度は関係がありそうです。
 DeNAの中畑清監督や日本ハムの栗山英樹監督、原監督などを見ていると、編成の権限を球団が握り、監督の役割が「グラウンド上のモチベーター」に傾きつつあるように映る昨今ですが、そういう流れが、タイトル争いにまつわる「作為」にどう影響するのかは興味深いところでもあります。

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